高原・山岳の彩り

 私の最も好きな山岳風景は、奥武蔵や秩父の低山徘徊で出会った馴染み深い風景である。

 そこには、昨日もまたそうであったように、中山間地の集落で生活する人々の変わらぬ日常性があり、これからも、私のようなハイカーの澱んだ気持ちを癒すために末永く存在し続けるだろう。

 いきなり偉そうなことを書いたが、無論、これは私の勝手な幻想である。

 そんな幻想を抱かせてくれる魅力が、奥武蔵の集落には充ち溢れているのだ。

 とりわけ、西武秩父線吾野駅を起点にして、繰り返し通い続けた顔振峠の集落は、様々な季節の変化を見せてくれて、いつ訪ねても、どこか少しづつ、いつもの風景とは違う何かがそこにあった。

 それも私の勝手な幻想だが、少なくとも、そのような気持ちを起こさせてくれる、稜線上に開かれた集落の風景の魅力は抜きん出ていたのである。

 春の顔振峠

 陽春の花が咲き揃う季節の彩りに呑まれるように、カメラに記録されるだろう様々な構図をイメージしながら、私はそこで、時間を忘れて揺蕩(たゆた)うように佇んでいる。

 その心地良さは、殆ど言葉に言い表せないほどである。

 花の咲いていない冬には、夕景・夜景の写真を撮るために、高山不動と共に、幾度そこに通っただろうか。

 雲に隠れた太陽が西の彼方に沈んでいくとき、気紛れな雲が一瞬切れて、太陽が再び顔を出すや否や、眩く照らし出した幻想的な落陽の風景が織り成す自然の、目眩(めくるめ)く変容の蠱惑(こわく)的な氾濫による、微睡(まどろみ)を奪う程の表現力に搦(から)め捕られて、思わず、シャッターを切る手を忘れてしまうときもあった。

 闇の向こうに消えずに残って いる光が残照となって、辺り一面を呑みこんでしまうのだ。

 雨天の日に出かけた奥武蔵の山並みが暗鬱に澱んで、泣き濡れていると思っていたら、そこから突然、霞がかった風景の目まぐるしい風景の変容に陶然とする思いを経験したのも、奥武蔵への低山徘徊が群を抜いて多かった。

 それほどまでに私を魅了した、奥武蔵の低山徘徊がもたらすセラピー効果は、他に代え難いものだったのである。

 「高原・山岳の彩り」と題する、この写真ブログでは、上高地や霧ケ峰高原、奥日光、奥多摩の紅葉などの画像が収められているが、あまりに有名な、それら観光スポットの風景美については殆ど語り尽くされているだろう。

 残念ながら、仕事とのスケジュールの関係で、8月の中旬しか訪れることができなかった上高地の風景は、6月の新緑期にこそ行くべきビュー・スポットである。

 それを知りながらも、結局、3回も訪ねているのに、一度も新緑期に出向けなかったことが悔やまれる。

 また、ニッコウキスゲが満開の霧ケ峰高原には、たった一度のアプローチで成功した稀有なビュー・スポット。

 いつものように、事前に情報収集を重ねていたは言え、つくづく運が良かったと思う。

 ビギナーズラックと言うべきか、一日花のニッコウキスゲが萎んでいく、まさにその直前の霧ヶ峰高原の夕景を見た感動は一生忘れないだろう。

 最後に、これも、たった一度のアプローチで成功した湯の丸高原(長野県東御市群馬県嬬恋村)の夏。

 標高2000m近い高原に、60万株のレンゲツツジが咲き誇る湯の丸高原の素晴らしさは、変わりやすい山岳地帯の影響も幸いして、たった一日の限定された時間の中で、ブルースカイと霧に咽ぶ風景の変容を堪能できたのは、霧ヶ峰高原へのアプローチと同様に、殆どビギナーズラックの賜物と言えるだろう。

 このように、季節の微妙な変化の彩りを、繊細に表現する日本の風景美にすっかり馴染んでしまった私には、もう、我が国以外の自然の風景を撮りに行こうなどという思いは微塵も存在しなかった。

 それよりも、奥武蔵・秩父への低山徘徊を執拗に重ねていくことで出会うだろう、一期一会の風景美を存分に愉悦することの方が、私にとって、何より代え難い価値だったからである。(トップ画像は顔振峠の夕景)

 
[ 思い出の風景  高原・山岳の彩り  ]より抜粋http://zilgf.blogspot.com/2011/11/blog-post_02.html