花様年華('00)  ウォン・カーウァイ <最近接点に達した男と女の、沸騰し切った〈状況〉のうちに>

 1  「映像性」の排除を意味しない「批評の前線」の可能性



 映像が提示したものを、観る者は想像力を駆使して読み解いていく。

 映像が提示したものと、提示されたものについて想像力を駆使する者が、観念の世界で結ぶ幻想の中枢を「批評の前線」と呼んでもいい。

 「批評の前線」にあって、想像力を駆使する者の読解の「かたち」は、件の者の感性・知性・経験則を含む「マインドセット」(経験、教育、先入観などから 形成される思考様式)の性格に大きく関与するだろう。

 しかし、それはどこまでも、映像が提示したものの範疇のうちにのみ、「批評の前線」が形成されるという暗黙のルールを保持する限りにおいてである。

 無論、そこで形成される「批評の前線」の可能性は、直接的に絵柄の提示を媒介することのない「映像性」の排除を意味しない。

 「映像性」が内包する「含み」を、観る者がどのように把握し、受容していくかによって、様々に伸ばされた批評の稜線が存在することをも排除しないのだ。

 だから、観る者は映像が提示したものを、いかようにでも解釈することが可能となる。

 それが、映像批評の規範性であると言っていい。

 本作を解釈するに当って、私は以上の文脈について改めて感受し、認知した思いである。
 
 
(人生論的映画評論/花様年華('00)  ウォン・カーウァイ <最近接点に達した男と女の、沸騰し切った〈状況〉のうちに>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/02/00.html