シコふんじゃった。('91)  周防正行 <「道修行」の奥の深さと、モチベーションの変容過程、そして、主人公の人物造形による訴求力の高さ>

 1  極めて丁寧に映画を構築していく真摯さ・緻密さ・知的濃度の高さ



 周防正行監督の映画は、なぜ、これ程までに面白いんだろう。

 その答えの全ては、その後に作られた「Shall we ダンス?」(1996年製作)、「それでもボクはやっていない」(2007年製作)の中で、より鮮明になっていると思われる。

 即ち、娯楽系の「Shall we ダンス?」では「社交ダンス」、社会派系の「それでもボクはやっていない」では、この国の司法制度の矛盾について、殆ど説明的とも思える、作家性の希薄なリスクを負っているにも拘らず、そのリスクに作品総体の価値が潰されることなく、極めて丁寧に映画を構築していく真摯さ・緻密さ・知的濃度の高さ ―― その辺りに収斂されるだろうか。

 「裁判官に悪意があるとは思わない。毎日毎日嘘つきにあい、人の物を盗んではいけません、人を傷つけてはいけません、時には、人気歌手の歌を引用して説教もする。その繰り返しだ。怖いのは、99.9%の有罪率が、裁判の結果ではなく、前提になってしまうことです」

 これは、「それでもボクはやっていない」における、痴漢冤罪事件の被告である主人公の青年の担当弁護士の言葉。
 
 一審の公判中、保釈された主人公を含む支持者に、担当弁護士が語った内実には、「99.9%の有罪率が、裁判の結果ではなく、前提になってしまうこと」の怖さに肉薄するに足る、本作で提起された主題に関わる周防正行監督の最も重要な警鐘となっていた。

 こんな説明的な描写を挿入しても微塵も揺らがない映像の完成度の高さこそ、周防作品の真骨頂であると言っていい。

 そして「Shall we ダンス?」や、本作のような娯楽系の映画では、艱難(かんなん)な行程を踏まえる「道修行」が内包する、それぞれの文化・スポーツ系の奥の深さを丁寧に描き切っていく姿勢が一貫していた。
  周防正行監督(画像)には、「たかが社交ダンス」、「たかが相撲」という風に一般的に流されやすい対象イメージを、単に、「娯楽映画の面白さ」という視野狭窄の範疇のうちに処理していくような姿勢で糊塗(こと)することなく、それぞれの特有の世界が包含する本来的価値の辺りまで、精緻な筆致が及ぶような基本的姿勢を崩すことがないのだ。

 文化としての社交ダンスの奥の深さに触れることで変容していく主人公の、「アイデンティティの再構築」を描いて成功した「Shall we ダンス?」がそうであったように、本作もまた、「伝統的武道」という名の、スポーツとしての相撲の奥の深さに触れた弱体相撲部の面々が、学生スポーツ相応の「道修行」のオーソドックスなプロセスを描いた、殆ど盤石な予定調和のスポ根ムービーでありながら、最後までスラップスティックに流されなかったのは、「たかが相撲」という安直な把握で物語を構成しなかった、表現者としての真摯な姿勢が観る者に充分に伝わってきたからである。
 
 
 
(人生論的映画評論/シコふんじゃった。('91)  周防正行  <「道修行」の奥の深さと、モチベーションの変容過程、そして、主人公の人物造形による訴求力の高さ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.com/2012/01/91.html