太陽がいっぱい('60)  ルネ・クレマン <「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪み>

 1  「越えられない距離にある者」に対する、普通の人間のスタンスを越えたとき



 「越えられない距離にある者」に対する、普通の人間のスタンスは二つしかない。

 一つは、相手を自分と異質の存在であると考え、相対化し切ること。

 例えば、「越えられない距離にある」相手もまた、「自分とは違う、人に言えない悩みを持っているのだ」などと考える「相対思考」こそ、徒に「卑屈」に陥らないクレバーな自我防衛の方略であるだろう。

 「天国と地獄」(1963年製作)の犯人は、この「相対思考」に自我をシフトできずに「地獄」への幽門を開いてしまった。

 「卑屈」という「負のエネルギー」が、激昂、虚勢、更に、欠如意識や優越への過剰な情感とリンクすることで、「相対思考」を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)の物とするレッスンが不足し過ぎていたのである。

 もう一つは、相手を相対化できず、相手と何某かの形で競争し、或いは直接対決すること。

 そのことによって、相手を乗り越えるとイメージできるような心理状態に自らをシフトしていくことだが、このパターンは、「青春映画」(後述)のモデルの一つであると言っていい。

 ところが、以上の二つのスタンスの他に、ごく稀に、「第三の選択肢」というものが存在する。

 相手の存在を、全人格的に抹殺することである。

 これは、当然の如く、普通の人間のスタンスを越えているから、多分に確信的な犯罪者のケースに当て嵌まるだろう。
 本作の主人公は、件の、ごく稀な「第三の選択肢」に身を預けることで自壊するに至った男の物語であった。

 なぜなら、「完全犯罪」が成立しなかったからだ。

 「完全犯罪」の困難さについては後述するが、以上の把握を踏まえて、2では本作の骨子を整理したい。
 
 
(人生論的映画評論/太陽がいっぱい('60)  ルネ・クレマン <「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪み> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/04/60.html