愛の深さ(一)

 愛とは「共存感情」であり、「援助感情」であると喝破したのは、現代アメリカの心理学者のルヴィン(注1)である。彼はそのことを、度重なる心理実験によって確信を得たのである。(絵画は グスタフ・クリムトの「接吻」)

  これは、心理学重要実験のデータ本から得た知識だが、私はこの分りやすい説明によって、正直、眼から鱗(うろこ)が落ちる心境になった。私なりに長く、このテーマについて考えてきて、そこで出した私の把握は単純なものである。即ち、「愛情」のコアになる感情は、「援助感情」であると結論付けたのである。

  例えば、自分にとってかけがえのない存在に映る他者(A)がいるとする。Aが元気で溌剌としているときは、こちらも何となくウキウキして、楽しい気分になる。ところが、Aが深刻な悩みを抱えて悶々とする日々を送っていると、こちらも辛くなり、滅入ってくる。辛そうなAに対して、何かをして上げざるを得ない感情に包まれる。居ても立ってもいられなくなるのだ。

 そんな状況の中で、Aの消息が突然不明になったとする。時間だけが過ぎていく。こちらは全く何も手がつかず、異常な不安に襲われる。そんな中で、私は自分ができることを懸命に模索する。不安のヒットと打開策のリサーチ。それだけが私の時間となるのだ。それ以外の時間は、私にはない。このときの私を中心的に支配する感情、それを私は、「特定他者を救うことが、自らの自我を安定に導く感情」と把握した。これを私は、愛と呼ぶことにしたのである。
 
 ルヴィンの言うように、私は愛を「援助感情」と捉えることにした。そしてその感情は、全ての愛の形を貫流する。だが、ルヴィンの言う「共存感情」は、必ずしも愛の必須用件ではないと私は見ている。遠くから見守る愛というのも存在するからだ。そこで私は、対象人格の苦悩こそ、愛のリトマス紙であると考えたのである。
 
 Aの煩悶が空気を伝播して、私の胸を突く。私は別に改めて、Aの苦悩を引受けるのではない。Aの煩悶が私を突き刺すのだ。私は私の苦悩を苦悩するだけだ。空気が届けたAの煩悶が、私の煩悶に加工される。私は私の煩悶の時間に繋いでいくのである。

 煩悶の深さが愛の深さになる。愛は煩悶によって測られてしまうのである。私の時間の中に加工された他者の煩悶が私の煩悶となって、私が内側で感受する煩悶の深さが、私の愛の深さになる。

 ―― では、煩悶の非日常性は、愛の日常的検証を困難にさせるのか。煩悶抜きに「絶対愛」を手に入れたと信じる者に、愛の日常的検証は自明であるのか。果たして愛は、日常的検証を必要とするほどに持続力を持たないものか。 

 世の中に、「試しの愛」という試練がある。

 その試練について、恵まれない環境で養育された子女が何かの縁で里子に出されるとき、養育先の仮親は必ずこの試練を受けるという事例によって考えてみよう。

 心理学の知見によると、まず、生存を保障してもらうための「見せかけ期」がある。遺棄されないために、必死に適応しようと、「良い子」をセールスしていく展開が出来するであろう。

 この時期をクリアした後に、養親の愛が日常的な検証に晒される。「試し期」である。養母に纏(まつ)わり付いたり、偏食したりして、わざと養親を嫌がらせる行為が続くのである。この過程を経て検証された愛を手に入れることで、養子女は自分が愛される価値のある存在であることを認知するのだ。

 そして、関係の次のステージである「親子関係形成期」に進んでいくのだが、恵まれない環境で養育された子女の複雑極まる関係の試練は、「試しの愛」というプロセスを必要としなければならないほどの振幅を不可避としてしまうようである。
 
 かつてオーストラリア政府によって、親から強制的に隔離されたアボリジニ(注2)の子供たち(「盗まれた世代」)の多数が犯罪者になったというエピソードは、「試しの愛」という試練にすら届かぬ現実が、この世に存在し得ることを能弁に語っているだろう。

 因みに、父に全く愛されなかったマリー・ローランサン(注3)は、終生、男性への不信感が拭えず、アポリネール(注4)を愛し切れぬまま同性愛に溺れていった、と伝記作家は報告している。

 また夫に浮気された妻が、我が子に、「女は敵だ」という教育を続けると、その子は極めて高い確率で「ドンファン」になると言う。特定の女性を、自分の愛の対象にできなくなるのである。

 これらの事例は、悉く「試しの愛」のナイーブさを突き抜けている。「試しの愛」によって日常的検証を受ける試練には、人の心の柔和さがまだ名残を留めていて、移ろいやすい人生の鈍い輝きを、なお放っていると言えるのだ。

 人は失って初めて、愛を知る。

 煩悶の深さが愛の深さであることを、そのとき初めて知るのである。煩悶は非日常的だから、愛の検証はいつも遅れてやって来るのだ。検証に熱情的であるのは、恋人たちだけであろう。検証することで、愛をよりパセティックに立ち上げていくのである。若いが故に向こう見ずな意志が、そこにある。

 なぜ恋人たちだけが、愛の検証にかくも性急になるのか。それは彼らが、愛を構成すると考えられる全ての感情に支配されているからだ。

 まず、「援助感情」がある。
 これはあらゆる愛を貫流する感情ゆえに、私は愛の本質と考える。

 次に、第二、第三の感情として、「共存感情」と「独占感情」がある。これらも愛を構成する重要な感情である。この二つの感情は相互作用的な感情であって、共存感情の強さが独占感情の濃度を規定すると言っていい。共存欲と独占欲は並立しやすいのである。

 因みに、ある種の「嫉妬感情」は独占感情が障害を受けたときの二次的感情なので、独占感情に固く張り付いている。独占欲が小さければ、当然、嫉妬に煩悶することもなく、そこで生じる怒りの感情は自我のプライドラインが反応したものに過ぎないであろう。

 そして、第四の感情は「性的感情」である。
 この感情が恋愛の本質であって、他の愛の形には存在しないものだ。因みに、同性愛もまた恋愛の一つの形であるが故に、当然そこに、性的感情が深々と纏(まと)わりついている。言わずもがなのことだった。

 以上、四つの感情が愛を構成する感情である、と私は考える。ルヴィンの影響である。

 恋人たちの愛の様相が過熱していて、何かいつも煮え滾(たぎ)っているように印象付けられるのは、以上の感情が全て深い濃度を湛(たた)えて、その関係に含まれているからである。これらの感情が相互に強化しあって、抑制系の発動がなかなか機能しなくなるのだ。

 抑制系の機能的停滞が、恋人たちの関係速度を著しく高めていく。関係速度の目立った亢進が性急さを周囲に印象付けて、しばしば、その排他的な閉鎖性が秩序破壊の元凶のように見られたりもする。強化し合った感情が規範を抜けるときのパワーは尋常ではないからだ。
 
 「共存感情」と「独占感情」が相互に強化していけば、その関係ワールドは、他のいかなる秩序へのアクセスを望む必要はないから、その感情ラインの一切が自給できてしまうのである。感情ラインの自給によって、癒されるべき自我の問題は当面棚上げになるだろう。だから、重苦しいテーマへの想像力は枯渇する。孤独の問題と、様々な社会的テーマからの呪縛が解かれて、そこで消費されるはずのエネルギーの過半が、恋愛という甘美なるゲームに集中的に利用されることになる。恋愛の関係速度が、二次関数的な上昇を記録するのは当然なのだ。恋は常に疾風の如く駆け抜けるのである。

 
(「心の風景/愛の深さ(一) 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_30.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)