愛の深さ(二)

 恋愛は愛の王道ではない。(写真は、イングマール・ベルイマン監督の「ある結婚の風景」)

 邪道であるとは言わないが、少なくとも、それが「究極の愛」ではないことは確かである。それは単に、愛の多様な要素が濃密に集合しただけである。或いは、それがもたらす快楽の増強によって記憶の襞(ひだ)が深く抉(えぐ)られただけに過ぎない。

 それだけに過ぎないにも拘らず、私たちは恰も、そこに人類の至高なる世界の達成があるかのように妄想する。それが醸し出す甘美で芳醇な物語が、何か突き抜けるように特別な、他を寄せ付けない魅力に満ち溢れていることを、人々はいつも大袈裟に言い立てるのである。

 とりわけ恋愛は、文学や映像表現の主題を制覇しているという印象が強い。恋愛に集合する感情の群を抜く過剰さが、それが何か、比類なき達成を果たし得たという思い入れを束ねてしまっていて、些か薄気味悪いのだ。

 例えば、「失楽園」(渡辺淳一の原作で、かつて映画化され話題になった。内容は、不倫した中年男女が心中するというシンプルな物語)というような作品が、侵し難い純愛の聖域として、恋愛至上主義の栄光の冠となって時を駆け、その劇薬を乞う人々の内側で繁殖を続けていくようにも思われる。言わずもがなのことだが、この世の全ての恋愛が作品の男女のような嵌(はま)り方をする訳がないのである。

 このような恋愛を無邪気に語る者は、酔うことができる者である。酔うことができる者は、酔わすことができると信じる者である。人を酔わすと信じるから、語る者は語ることを捨てない者になる。語ることを捨てないことによって、語り続けられることを信じる者になるのだ。

 かくて物語は完結し、不滅の光芒を放つと信じる者たちによって繋がれていく。いつの世にも、友情を誇るフラットな物語の何倍もの色懺悔が語られ、読まれ、鑑賞されていく。語られる数だけ、「究極の愛」がカウントされ、カウントされた数だけ、「究極の人生」が、それがなかったら私には何も残らないと言わんばかりに、其処彼処(そこかしこ)で自嘲のポーズ巧みに、しかし思い入れ深く放たれるのだ。

 恋愛の語り部は、いつでも甘美で、苦い人生の語り部となる。彼らの深く抉(えぐ)られた記憶の襞(ひだ)が、そうさせずにはいられないのである。これが、恋愛という劇薬が放つパワーなのだ。ただそれだけのパワーだが、誰もそれを捨てられないのである。

 恋愛の中にある「性的感情」が、恋人たちに強い「共存感情」を誘発する。日常的に相手を占有したいという思いが「独占感情」にもなって、相手に独占されたいという感情と見事なまでに融合するのである。

 この融合の深さは、彼ら以外の第三者との関係の濃度の違いを際立たせて、その性急で過剰な絡み合いが、これ以上弄(いじく)るものがないという地平にまで突き進んでしまいやすい。それ故、この甘美で芳醇であった関係は、結局、破綻し、自壊を招くことにもなる。関係に集合する感情が相互に増幅作用を起こすから、自我の抑制系が機能しにくくなってしまうのだ。

 抑制系が機能しにくい愛とは、一体何であろうか。

 世界の何ものをも映らない深みにまで潜り込んで、いつもそれを強迫的に検証し続けねばならないような愛というものが、私たちに決定的な輝きを照射して止まない何かであるのか。

 愛とは「援助感情」である、という私の考えを敷衍(ふえん)していくと、独占的に援助するという恋愛の閉鎖性は、押し並べて排他的な方向でしか完結しにくいことを示すので、援助を深化させる契機を自給できなくなるのである。相手の固体も人格も、更に援助をも独占しないと気が済まない、そんな過剰な恋愛が抱える排出経路の貧困は、それ自身のキャパシティを越える苛烈な事態にヒットされるとき、その構造的な脆さに足元を掬(すく)われるに違いないだろう。

 幻想の崩れは、いつでも呆気ない形でやって来る。

 過激に立ち上げられた関係ほど、その崩れはだらしない。援助の貧困が常に愛の貧困に流れていくと、出口をも持たない愛は一気に自壊する。百年の恋が醒めてしまうのである。愛を最後まで支え切る「援助感情」だけが、関係の中枢に、それを失いたくないものの根拠を自給するだろう。遂に深化を果たせなかった援助の貧困は、いずれ訪れるだろう感情の自然な鈍磨の中で、関係の生命力をじわじわと削り取っていくのである。

 援助の貧困が、愛の貧困となる。

 人は愛に包まれているとき、援助しなければならないから援助に走るわけではない。援助せずにはいられなくなるから、自分にとって何よりも重要な存在である、特定他者の援助に動くのだ。内側から駆り立てて止まない感情が身体を突き動かし、煩悶を燻(いぶ)り出すのである。

 規範や倫理で駆り立てられた身体は、契約感覚でしか動かないし、また動けない。無論、愛は契約ではない。

 愛する者への煩悶が、私の身体に乗り移ってくる。

 私の身体は空気を震わせながら、魂を焦がしていくのである。私の中から、煩悶が燻(いぶ)り出されていくのだ。その煩悶が空気を食(は)んで、私という総体を突き上げていくのである。突き上げられた私の総体が、時間の向うを駆けていく。その感情を自給する力が溢れ出ている間、私の愛は枯れてはいない。感情の貧困は愛の貧困であり、関係の貧困であるからだ。

 また、援助に向かう感情は、同時に援助を乞う感情でもある。

 それは自らを駆り立てる感情であり、駆り立てたものを受容する感情でもある。この二つの感情が濃度を稀薄化せずに溶融するとき、関係が手に入れた達成幻想は、心地良さの感情を大いに醸し出している。煩悶の先に待つものへの恐怖心は、既に相対化されているのだ。達成幻想のそこはかとない気分が、自我に付着する棘の何本かを抜き取っているからだ。
 
 しかし、援助に向かう感情の強さは、それを乞う感情の弱さの中には入れない。向かう感情は、乞う感情の、その強さの分だけしか入り込めないのだ。愛の実感は、いつでも反応の微妙なクロスの中で刻まれるからである。二つの感情の濃度の目立った落差はあまりに危ういのである。感情の濃度が均衡を保てなければ、溶融し切れない感情が沈殿してしまうのだ。「援助感情」にはバランスが必要なのである。

 バランスのとれた「援助感情」が、関係に秩序を保証する。愛には秩序が不可欠なのである。バランスのとれた「援助感情」だけが、関係を支える愛情ラインを安定的にガードする。あとは、「援助感情」の絶対量の問題にかかっていると言っていい。

 「援助感情」の絶対量の不足があれば、関係幻想に雪崩(なだ)れ込んでいくモチーフの媒介は、当然強くない。従って、愛への枯渇も少ないであろう。相手の煩悶に対して倫理的次元ではなく、感情の次元で無頓着に慣れてしまうということが、既に援助に向かうモチーフが絶え絶えになっている。そこでキープされた低量値の感情バランスによっても、勿論、人は安定的な関係を恒常的に定着させることができよう。幻想濃度の稀薄な関係もまた、必要であるからだ。しかし、そこに深々とした愛情ラインを実感するのは難しい。愛の深さは結局、「援助感情」の絶対量というバランスの問題に尽きるのである。

 
(「心の風景/愛の深さ(二) 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_31.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)