愛される権利

 人間には、人を愛する自由はあるが、人から愛されるという権利はない、と書いた人がいた。

 しかし子供だけには、愛される権利というものがある。子供は愛されることがないと、健全なナルシズムが育たないのである。「母に愛される自己」を愛することができるのは、愛される自己に価値を見出すからである。

 因みに、近年の「三歳児神話」の否定の論調の中でもなお、「母に愛される自己」という確信による、表象モデルとしての「内的ワーキングモデル」の重要性が、ボウルビィ(英の精神分析家)のアタッチメント・セオリー(愛着理論)として、しばしば心理学のフィールドを越えて指摘されているのは、「母に愛される自己」という主観的確信が内包するテーマ性の決定力が、ホスピタリズム施設病)の問題を声高に叫ばずとも、恐らく、多くの人の経験的文脈のうちに了解された心理的背景を持つからであろう。

 自己を愛する心が、同様に、自己を愛する他者のとの間に心のアーチを架ける。他者への愛によって、狭隘なるナルシズムは相対化するのである。愛のゲームには、他者に対する援助や献身という感情が媒介することを知り、ナルシズムの暴走に歯止めがかかるのである。

 愛されることを少ししか知らなかった子供は、少ししか知らなかった分しか、自分を愛せないだろう。自分を愛せない子供は、愛されることによって手に入れるはずの自己の存在価値を既に捨てている。誇りを捨てている。しかし、少しだけでも愛されたいという記憶が、しばしばその欠落感を常態化させている、自らへの愛情の必死の補償行動に走らせるのだ。この哀切極まるアクションが頓挫するとき、もう流れを顕在化してしまっていると言っていい。

 「だれのものでもないチェレ」(注1/写真)(ラースロー・ラノーディー監督)というハンガリー映画が観る者の心を揺さぶって止まないのは、遂にナルシズムを育めなかった少女の悲劇をリアルに捉えていたからだ。

 映像のラストで、養家が紅蓮の炎に包まれたとき、少女の視線は、自分を家畜のように扱っていた全ての者の終焉のさまを見届けるかのように、闇の奥から放たれていた。少女の闇の奥には、少女が望んだだけの光がもう届くことがないであろうことを暗示して、映像は閉じていった。

 子供だけには特権的に占有し得るはずだと信じる、「愛される権利」というものが、実は先進国のここ数十年間の観念的産物でしかないことをも、映像は問わず語りに示唆していたのである。

 フィリップ・アリエス(フランスの歴史家)が、「〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活」(みすず書房刊)という極めて刺激的な著作で、恰もフレンドリー化した現代の親子関係を皮肉ったように、私たちの、それほど遠くない過去において、「子供」という名に集約される存在それ自身が、「愛される権利」を含む、何か特別な価値を占有していなかったことだけは押さえておいた方がいい。

 子供を多く産んで、運良く成人に達した者を、社会は単に貴重な戦力として受容するという流れの中では、子供の人権的配慮など極めて限定的なものでしかなかったのである。

 加えて言えば、今なお発展途上国の人々の家族の実態が多産であるのは、子供を持つことのコスト=不利益(養育費)が、単に愛情の問題によって説明できない事柄、即ち、「老後の世話」や「労働力」としての、余りあるベネフィット=利益の問題を越えられないからであると思われる。

 その意味で、我が子に「老後の世話」や「労働力」を期待することのない現代人が手に入れるベネフィットは、明らかに自分たちが支払うコストを上回ることがないので、どうしても、「少なく産んで、大事に育てる」という思いに流れていかざるを得ないのであろう。

 ともあれ、「少なく産んで、大事に育てる」という観念が定着したかのような私たちの近代文明社会は、それ故にこそと言うべきか、愛を制度化したかのような様々なる仕掛けを作り出してしまっている。

 3月の節句、入園、入学式、子供の日、運動会、七・五・三からクリスマス、それに我が子の誕生日を含めた年中行事の大半が子供絡みであることを想起すれば、殆ど「制度化された愛」の検証だけの機能を内包して、それらの行事が自己展開していくさまを見届けることができるだろう。

 そんな些か過熱気味の空気の中で、恰も愛玩用のペットの如く、一方的に把握され続けた子供の自我が記憶してきたものの中枢に、「愛される権利」の占有感情があると言っていい。

 愛は権利だから、勝ち取る必要はない。そこにじっとしていれば、愛は向うからやって来る。やって来なければならないのだ。自分だけをビデオカメラで追い駆ける父がいて、自然に小遣いが溜まるシックスポケット(注2)がある。祝福されるだけの十数年が過ぎても、すぐ傍らには、いつも何か言いたそうな母の心配顔がある。それを振り切れない自分がそこにいて、そこでクロスした情緒の束が、しっかりと自我に貼り付いてしまっている。それはもう、健全なナルシズムの指標値を優に越えるものになってしまったのか、誰も容易に答えられないでいる。 

 然るに、愛されないままに成人した者への「愛の権利」は、どこかで充分な補填を受けるべき何かであるのか。私たちの社会は、当然の如く、その問いを愚問とする。既に成人した者に、「愛の権利」はもう届かないのだ。私たちの社会が、内気なるストーカーを受容することもないのである。
 
 「君には、僕を愛する義務がある。僕もまた、君から愛される権利がある」
 
 ここまで言い放つ大人の我が儘までは、私たちの社会の「愛の制度」は、当然網羅し切れない。相手を脅迫してまでも占有したいと望む、そこだけすっぽりと欠落したかのようなストーキングまがいの愛情の、暴力的な補填への振る舞いに、野蛮なる愛の狩人は一体何を見ようとするのか。それとも、何ものをも見ることができないのか。自己史への何かの拘りが、過剰な補填を求めてしまうかのような歪んだハンティングは、尖った者ほど自壊に向かう流れを止められないようにも見えるのだ。
 
 「私はまだ愛されていない」
 
 ストーカーが放つ銃丸が向かうのは、義理チョコまでも囲い込んだ、「表文化」の愛のシステムであるに違いない。

 自分の周囲や、メディアというステージで踊る愛情交歓の目立った振舞いに、いつまでも揺さぶられて止まない尖った自我が虚空に吠えている。既に内包する本質から遠ざかるばかりの、「愛」という名の、手垢に汚れた幻想だけが際限なく開放系になっていて、露出度が弥(いや)増すのみの過熱した社会の多くの隙間から、匿名のハンターたちが其処彼処(そこかしこ)に出没して、止まらないのである。愛のシステムの形式的平等論と、「愛される権利」の年齢限界という「表文化」の二元論をこそ、彼らはしばしば確信的に壊しにかかるのだ。

 「愛される権利」の基盤としての未成年特権という枠組みを外して、権利の無限拡張を狙うほど煮え滾(たぎ)った心の地図は、あまりに寒々としている。

 愛のネットワークなどと思い上がった「表文化」の尖りが、その裏で帳尻合わせの突出を生んでしまうのか。文化はいつも、危うい均衡に振れていくのか。自分だけが惨めになりたくないという近年の顕著な流れが、そこにある。

 愛の風景の目立った展開のさまが、一方で愛のテロリストを増殖させていく。愛の形式的平等論の広がりの中で、社会に蔓延する私権化、占有化、脱秩序化、脱規範化の流れが、「愛される権利」をテロルもどきで奪回しようという、おぞましい風潮を浮き上がらせてしまうのだろうか。

 「愛される権利」の無秩序な立ち上げの風景が語って止まないもの ―― それは結局、他者を愛する自由という文脈の厳しさは、経験的に学習してきたものの厳しさと同義であり、そこで手に入れた、ある種の能力が内包する様々なる価値、例えば、想像力とか、援助感情とかいうような中枢的な価値の媒介なくして、容易に辿り着けない厳しさを映し出す何かであるということだ。

 
(「心の風景/愛される権利 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)