現代家族の風景

 物理的共存を深めるほど、関係は中性化する。これが関係の基本命題である、と私は殆ど独断的に考えている。

 中性化とは、一言で要約すれば、「性の脱色化」である。

 夫婦と子供二人という核家族の中で、この中性化=「性の脱色化」という現象が多元的に、部分的には緩慢に、しかし確実に進んでいく。それは、物理的共存を選択した家族の宿命であると言っていい。

 そこでは、かつて愛し、恐らく、今でも愛しているに違いない特定の女性を、「お母さん」とか、「ママ」とか呼び慣らす習慣への、ほぼ自然なるシフトがまずあった。これは、我が子が意識主体へと成長する行程に対応するようにして現出したものだ。

 かつての愛する男性もまた、固有名詞の人格呼称から、「お父さん」という役割呼称に変えられて、瑞々(みずみず)しかった若きカップルは、家族という役割集合体に関係ベクトルを転位させていくことになる。夫婦の関係は、子供との関係に力点を移すことで相対化され、一つの役割集合体としての家族が、その固有の律動を刻んでいくのである。
 
 この集合体では、性は極めて制限的であり、抑制的である。

 物理的共存を深めることで、この役割共同体が中性共同体として純粋培養させていくのである。

 ゲップが飛び交い、放屁と鼾が宙を舞い、裸の肉塊が空間を過(よ)ぎっても、誰もそれを不思議に思わないような空気が、そこにある。中性化の達成度の微妙な落差を認めてもなお、この集合体の内側を貫く脱セックス化の規範ラインは健在である。

 このことは、近代家族の使命が、子孫の継続的伝承という中枢のテーマを除けば、愛情と援助の自給という二本柱に拠っていることと関係する。

 愛情は、「共存感情」と「援助感情」をコアにする。情緒的共存度の深化が「援助感情」を濃密に育て上げ、物理的、精神的援助の供給を可能にするのである。

 家族の中では、単に快楽や潤滑油的効果のためだけに、夫婦間の性が限定的に処理される。しかしそれも、役割集合体としての家族の使命の中で少しずつ中性化を余儀なくされていく。夫婦間の関係の密度の確認においてさえも、既に世代の継承の役割を果たした家族には、「性」という激甚な現象がそれほど必要ないからだ。そこでは、労(いた)わりあう「援助感情」と、社会的な責任を負う自我の安定的な供給こそが求められるのである。

 これらの要請に応えて、現代家族は物理的共存を基盤とする役割集合体として、その中性化を限りなく深めていく。家族というリアリズムの変容が語られようとも、その普遍的な輝きは失われない、と大方の人は信じ切っているように見える。
 
 中性化の亢進は、家族の宿命だった。

 しかし夫婦の性を剥ぎ取ってもなお、中性化を進めていかざるを得ないのは、単に物理的共存の心理学(物理的共存を深めれば関係は中性化する、ということ)に拠るものだけではない。

 馴れるほどに性的緊張感は稀薄になる、というのは確かな真理である。

 鼾(いびき)と大食の向うに性の神秘を嗅ぎ取れ、と言う方がどだい無理である。性は単に、身体の出し入れではないからだ。性はイメージの物理学である。快楽を紡ぎ出すパワーの多くは想像力に因っている。オナニーこそ、究極の快楽とも言える所以なのだ。
 
 ときめき感覚の保持は、イメージをキープする能力にかかっている。配偶者に恋人時代のイメージに似たものを感じていたいならば、家族というリアリズムの中で、努めて自覚的に男女の関係を確保していく以外にないのである。

 然るに、「父」や「母」であるとか、「子供」、それも「長男」や「二女」であるとかいった役割共同体の固定化の流れは、夫婦だけに男女の関係を例外的に許容し続けるのは簡単ではない。夫婦に関わらず、性はどこの社会でも開放されたものになっていない。隠れて営むという性のスタイルが、人類創世と同時にあったものかは定かではないが、「家族」という名の限定的な小宇宙で、父と母が同時に、「夫婦」という名の男女でもあったという事実を、物心が付き始めた二世たちに見せる必然性がないという規範意識を、人々は自然に継承してきているのである。
 
 早晩、夫婦の中からときめき感覚が稀薄化していく。

 それに反比例するかのように定着化が進むのは、安らぎの感覚である。これが、関係の中性化の推進力になる。そこにこそ、中性的集合体としての家族の含蓄があると言えようか。つまり、物理的共存によるナチュラルな変容という把握の中に、実は、その変容をこそ切望せざるを得ないモチーフが潜んでいるということなのである。

 こういうことである。

 家族の中性化の基底のモチーフは、中性化を果たすことで得られる安らぎの感覚の共同内化にこそある。一言で要約すれば、家族の成員は自らを包含するその集合体のうちに、それぞれの自我を裸にしたいのである。言い換えれば、家族とは、その成員の自我を裸にする何ものかなのだ。

 そこで眠っていても、誰も襲って来ることがなく、裸になっても、誰も特別の視線を投げかけたりはしない。当然、会話には敬語はいらない。要するに、人が社会とクロスするときに生じる緊張感が、ここには僅かしかないのである。生命の安全と精神の緊張の弛緩を確保するための装置 ―― それが家族という集合体なのだ。この装置の中で、各成員がそれぞれの成長と老化のプロセスに見合った、様々なる情緒的結合を果たしていくこと。良くも悪くも、これが現代家族の基幹を成すイデオロギーである。
 
 家族には、ときめきも緊張も昂揚も不要である。ただ、安らぎだけが要請されるのである。家族とは、大いなる安らぎ共同体なのだ。緊張の発生はあっても、殆ど一過的なものでなければならない。そこで一過的に成員の関係の均衡を崩すことはあっては、時間の自然な経過のうちに関係の修復が為されていなければならないし、そのレベルでの緊張の発生でなければならないのである。

 だから、誰も家族の崩壊を簡単に信じたりはしない。成員の自我の安定が、その家族に深く依拠しているからだ。自らが依拠する基盤を、誰が好んで壊したりするだろうか。家族の復元力の絶対性を信じるからこそ、人はそこに甘えるのである。緊張の発生も早晩中和され、本来それがあるべきところのものに、予定調和的に導かれていくに違いないことを、誰もが信じているのである。

 この共同幻想の力が、成員の自我をたっぷりと洗浄する。

 そしてしばしば、甘えを誘発する。これは、そこに集合する自我を裸にしてしまうことに対する、過剰なる代償と言っていい。裸になった自我は、それぞれの防衛ラインを容易に踏み越えていくから、そこに感情がクロスし、怒号や罵りを生みやすくなるのである。ここでの情感たっぷりのメッセージの多くは、殆ど甘えのカテゴリーに含まれるものだろう。
 
 「どうしてお母さんは、私(俺)の気持ちが分らないの」
 「あなた(お前)はまだ、私(俺)の気持ちが分らないの(分らないのか)」
 「私(俺)って、本当にお母さんの子なの?」
 「お母(父)さんって、本当に子供が可愛いと思ったこと、あるの?」
 「もっと親らしいこと、してよ」等々。
 
 このような比較的、常套的なフレーズは、家族ゲームの慣用句ですらあるだろう。以上のフレーズにはすべて、相手の気持ちに訴えかけるという共通の含みがある。つまり相手の心情にダイレクトに訴えかけることで、自分の難しい心情を察して欲しいと強請(ゆす)るのである。

 自我を裸にするということは、こういうことなのだ。

 際どい修羅場の一線を超えない範囲で、この「察し」を求めるゲームは、それを必要とする状況下で、甘え含みのうちに遂行されていく。ゲームの逢着点は、可視的には感情を放出した後に待つ、それなしには済まない気まずい沈黙である。この沈黙の中で、内実は既に安らぎの行程にシフトしていると言っていい。沈黙はしばしば、裸形の関係において、他に代え難い貴重なる時間を蓄える何かになる。家族だけが、沈黙を中和のための繋ぎの幕間(まくあい)にするのだ。

 沈黙を力に変える能力が、家族には存在する。社交のステージで最も嫌われる沈黙が、家族ゲームの中で、しばしば重要な役割を果たすのだ。

 ゲームに過激にアクセスした者の自我は、放出した後の疲労から、その後の処置を家族の復元力に委ねているだろう。そこにもう、甘えがある。それはまるで泣き疲れた乳幼児が、途端に寝入っていくというリバウンド現象と同じものと言えるのである。
 
 安らぎ共同体としての家族が、このように、成員の自我を裸にするという第一義的役割を担う限り、性の装飾は邪魔なだけであろう。それは、裸になった自我がラインの向こうの自我を垣間見ることを遮蔽(しゃへい)する、ある種の滋養物のような何かであるのか。少なくとも、それは感情の通気を悪くするような何かであるに違いない。

 自我を裸にするから、家族の中性化が不可避となるのだ。

 家族には、「男」とか、「女」などという、世間で使う性別呼称は不要なのである。ただ、役割呼称だけが求められる。それ以外の何もいらない。自我を裸にして、愛情と援助を円滑に出し入れするには、恐らく、その方が遥かに好都合なのだ。ゲームにもアクセスしやすのである。

 「家族の風景」というものには、その価値を継続的に保持するための文化の、巧妙な仕掛けが隠されているようである。
 
 
(「心の風景/現代家族の風景 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_2096.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)