神の如き親心

 子供たちの外界への適応許容ラインは、身体のレベルに決してとどまるものではない。それは私が、「寒暖差5℃の世界」(注)と呼ぶところのものである

 幼少時より注目され、抱えられ、様々なる抗菌グッズにより庇護されてきた、この国の子供たちの自我は、彼らを過剰に抱え込んできた大人たちの手によって、多くの場合、豊穣なる環境下で形成されてきた。
 
 この国の親たちは、概して子供に甘い。厳しくないと言い換えてもいい。或いは、子供の欲求不満の状態を放置しておけるほど、その視線を冷静に保てないと言った方がいいのかも知れない。子供からの様々なるシグナルに、極めて鋭敏に反応しやすいのである。だから、知らずのうちに母親たちは、間断ない愛児のコールの多くに、しばしば必要以上に反応し、彼らの欲求不満を先取りした形で、その欠落感覚を無媒介に満たしてしまうのである。

 欠落の実感をモチーフにして、それを補填していくために動いていくところに、自我は普通に立ち上げてくる。それ故、欠落感というものを、私たちは必ずしも否定的に捉える必要はない。寧ろ、それが一定のサイズの記憶によって、その自我に付着されることのない意識の脆弱さこそ、厄介なものであると言えようか。復元に関わる臨界点を超えない限りでの、適正量の欠落感こそが自我を固め上げていくのだ。

 程々にあるが、充分にない。充分にないことへの認知が、充分にあることへの思いを開かせるのが自我の欠落感覚である。欠落感覚が常に僅かずつ残されるから、人は自らのために動こうとする。動くことで、対象との関係が測られていく。動くことで、人は少しずつ賢くなるのだ。動いていく足跡に、自我が固まっていくからである。欠落感が直ちに補填されてしまうなら、動くこともないであろう。動く必要がないからだ。動かなくなることに慣れてしまうと、動くことに必要以上のエネルギーコストが払われる。だから、次第に動くことが億劫になるのである。

 こうして、次第に微温ゾーンから出られなくなる。子供たちは冒険を苦手にし、無機質な環境に身を竦(すく)め、変化への反応が過敏になり、多様な状況への修復力を著しく衰弱させていくのだ。

 適応とは、異質なるエリアに自我を踏み入れて、変化を内化していくプロセスである。

 自我の適応許容ラインが狭ければ、変化の幅の広がりに対して充分に対応できず、極めて限定された変域以外では、自らを輝かせることを困難にさせていく。意に沿わない強制力にしなやかに反応できない感情が、そのままストレスになって自我にストックされても、脆弱な自我の欲求不満耐性の能力では、忽ちのうちにオバーフローしてしまって、僅かばかりの規範の強度に堪え切れないのである。

 意に反するようにして、過剰な親心が、子供の自律への過剰なプロセスを縮小してしまうのだ。自我が辛い局面に立ち合ったときに身につけるだろう抵抗力を、その「神の如き親心」が削いでしまうのである。


(注)筆者自身の造語。この国の子供たちの生活温度のあまりの狭隘な範囲について、寺子屋のような学習塾を営んできた自らの実感的観察から、20度を下回ると寒さを訴え、25度を上回ると暑さを訴える子供たちの通常の反応に対して、私は「『寒暖差5℃の世界』の中で子供たちが生活している」、という風に考えたのである。

 因みに子供たちは、このアピールを、主に冷暖房を必要としない、中秋(或いは、初秋)と晩春(或いは、初夏)の季節に訴えかけてくることが多いのだ。

 要するに、この国の子供たちの季節の受容感覚が、「休眠打破」(厳しい低温期を通過することで眠りからさめ、開花の準備を始めること)できずに部分的に崩れかかっていて、極端に言えば、彼らには、「夏」と「冬」という季節の実感しかなく、最も身体が自然に対して柔和的な関係を保持し得る、「春秋」という季節への受容感覚が劣化していると見られるのである。
 
 
(「心の風景/神の如き親心 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_6032.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)