規範の崩れ

 規範意識の衰弱化という現象が、今、最も集中的に見られる場所は学校空間である。 常に学齢期に達したというだけで、義務教育という名の下で、地域の子供たちが地域の学校に通学するという近代公教育百年余の歴史がなお続いている。

 何より、規範意識の衰弱化とは道徳体系の劣化以外ではない。道徳とは、社会的に支持された規範意識であるからだ。現代の危機とは、紛れもなく、この社会に呼吸する者たちの道徳的観念の変貌を意味するだろう。それが、学校空間において顕在化してしまっているのである。
 
 考えてみれば、学校ほど無秩序な空間もない。私の記憶が間違っていなければ、かつてドイルは、学級運営の困難さが、一つの小さな空間内で、「多様性」、「同時性」、「即時性」、それに「予測困難性」という問題を内包しているところにあると指摘している。そのアナーキーな空間に秩序を作り出すことの艱難(かんなん)さこそが、学校教育の宿命的な課題であると言えるのだ。

 本人にその意志があろうとなかろうと、様々な階層の子弟たちが、制度的強制力によって与えられたカリキュラムを履修し、分刻みの生活時間を部分的に共有するのだが、その無秩序的な集合性に強力な空間を、其処彼処(そこかしこ)に作り上げるのである。そのことのリアリティを考えるとき、とうてい規範なしに存立できるものではないのである。

 まず、教師の管理下に置かれた生徒たちは、当然の如く、教師の指示に服従し、その管理を円滑に進めるために、生徒自治によって補完されていく。次に、教科学習を補填するという名目で、宿題などの在宅学習が義務付けられる。そして生徒の服装や持ち物、遊びや態度までが管理されるに及び、ほぼ生徒たちの日常性が学校によって把握されるに至るのである。

 これは制度的強制力として、この国の近代史を貫流してきたが、誰もそれを不都合とは考えてこなかったし、それだけが国民を、「非識字者」から解放する有効な手段であると、誰しも素朴に信じ込んできたことは疑いようがない。そればかりか、地域が学校を強力にバックアップして、様々な行事に協力を惜しまないできた。「先生のいうことは絶対だ」と我が子に言い含める父母たちの存在こそが、学校空間を地域文化のコアにした原動力であった。

 しかし、疾(と)うに、このパワーが殆ど解体されている。

 地域共同体の解体と、人々の私権意識の高まりが学校空間を相対化してしまったのだ。却って、学校での従来通りの管理が面倒臭いものと映るらしく、家庭の中から脱管理のイデオロギーが噴き上がって来たのである。家庭での情緒過多的な関係に馴染んだ子弟には、もう先生の、普通のレベルの叱責自体が我慢し難いものになってしまったのだ。

 かくして、学校規範は「私権抑圧の敵対物」になり、悉(ことごと)く排除されねばならない旧来の陋習(ろうしゅう)となる。生徒も親も、本来の無秩序性への回帰を叫ぶのだろうか。明らかに、近代公教育百年の規範体系が、殆ど目立つようにして自壊しつつあるのだ。

 子供たちにとって、家庭はナルシズムを形成し、それを温床する場所である。それ自体、別に悪くない。しかしそれが、しばしば過剰に流されている。それが問題なのだ。

 フレンドリーな父親と、勉強のことだけに口煩い母親がいる。子供は一応勉強のポーズだけをとって、人並みの成績表を届ければ、それほど気苦労はなく、存分に「箱庭の快楽」を愉悦し得る。我が母は毎年必ず、自分だけのバースデイパーティーを祝ってくれるし、義理チョコの配慮までしてくれるのだ。

 また、運動会(写真)や生徒発表会の際には、ビデオカメラ片手に自分だけを追い駆けて、その必死のアクションを特定的に切り取るようにして、カメラに撮ってくれる優しい父がいる。しかもこの父は、運動会の朝には早起きして、場所取りのために、自分が通う学校の校庭まで懸命に走ってくれるのだ。それだけではない。勉強のことで母に叱られる自分をフォローしてくれるのも、しばしば、我がフレンドリーなる父の役割でもある。

 「勉強だけが全てじゃない」と言って。

 子供中心の我が家のアルバムには、家族旅行の楽しい思い出が一杯詰まっていて、その家族旅行の日程の調整が困難なら、通常の学校登校日までもズル休みさせることに躊躇しないのである。

 このように家族自身の私権が、紛れもなく、学校に対する規範感覚より優先しているにも拘わらず、我が子への生活指導を担任教諭に懇望する親もいる。更に、学校で体罰が起るとヒステリックに反応する一方、虐め事件が発生すれば、学校側の管理不足を難詰するという具合なのだ。

 要するに、我が子の私権だけが重大事なのである。
 
 しかし厄介なことに、多くの親たちはこの本音を隠して、奇麗事だらけのデタラメな言説を垂れ流すばかりのマスメディアの、恐ろしく頓珍漢で、浮薄なる援護射撃を背景にするかのようにして、「個性教育」という名の、およそ無理難題の教育実践(要するに、「ウチの子供だけを見てくれ」と言うこと。例を挙げれば、「ウチの子供は野菜が食べられないから,他の給食にして欲しい」等々)を学校に要求したりするから、教師たちを不必要なまでに追い詰めてしまうのである。

 学校をここまで相対化しておきながら、依然として学校に、滅茶苦茶なクレームや要求を一方的に吐瀉(としゃ)するお粗末振りは、殆ど私権の暴走と呼ぶ以外にない。この愚行を止めない限り、精神科のクリニックに通う教師たちのラインの繋がりに、いつまで経っても終わりが来ないだろう。

 我が子に本気で規範意識を身に付けさせようと言うなら、まず、家庭規範の学習から始めるべきである。肝に銘じることは、「成績が良い子であるより、心の優しい子になって欲しい」と言いながら、偏差値30の現実に直面して、「せめて、普通の成績をとって」などというダブルバインドを侵さないことである。

 親の覚悟が、我が子の自己教育のレベルを決めると考えるべきなのだ。
 
 
(「心の風景/規範の崩れ 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_1841.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)