この国の「闘争心」の形

 1  序 ―― その場凌ぎのリアリズム


 この国では、しばしば、結果よりもモチーフの純度こそ評価される傾向があるという指摘は多い。
 
 極端に言えば、この国では「何をしたか」によってではなく、「何をしようとしたか」によって人間の価値が決まるのであり、そのプロセスでの真摯で、利他性の高い健気な努力こそが評価の重要な尺度になるのである。

 そしてこのことは同時に、「過程」においての甚大な誤謬も、「結果」における成功性によって簡単に反古にされるという、プラグマティックな心理構造とも同居し得る杜撰(ずさん)さを随伴しているように思えるのだ。即ち、「結果良ければ、全て良し」という心理文脈である。

 これは、本質的に闘争者のカテゴリーではない。

 闘争者はビクトリ―を終局の目標にするから、モチーフやプロセスなどが戦利品の価値を越えることがないのだ。闘争者にあっては、ただ戦利品の質量だけが価値を持つのである。

 そこでは、モチーフとプロセスは従属価値でしかないのだ。それ故にこそ、闘争集団のリーダーに求められる第一義的資質は、沸騰した状況であればあるほど、闘争者がウィナーとなり得る指導的能力をより多く有しているかいないかという一点にこそ限定されるので、まかり間違っても、人間性とか、人の好さだけで選ばれたりはしないのである。単にそれらの資質は、闘争集団をウィナーにさせ得る条件として、矛盾する要因にならない限り支持されるレベルの価値でしかないということだ。
 
 然るにこの国では、人間的な誠実さへの評価の高さが、遂に、二百三高地攻略(日露戦争における旅順攻略戦)の指揮権を奪うことが遅れたことで、無数の兵卒の犠牲を最小限に留めることに明らかに失敗しているというシビアな見方もあるほどだ。限りなく「無私なる人格者」であるという一点において、神にまで昇ったゼネラル(乃木希典第三軍司令官)を許容する空気というものが、恐らく我が国にはあるのだろう。

 そのモチーフの純度の高さが過剰なまでに評価されて、「昭和維新」の青年将校たちの存在は、偏狭なファシストのアイドルの範疇を少なからず超えた支持を、今なお有している。歩兵第三連隊(第一師団)所属の安藤輝三大尉の人気の高さは、彼の求道的資質や部下思いの人柄の良さと無縁であるとは到底考えられない。

 彼ら青年将校たちが決起した後の持続の弱さが、「パッと咲いて花と散る」という類の「潔さの美学」によって相対化されるような精神風土の中では、多くの場合、「何をしようとしたのか」ということだけが声高に語られてしまうのである。

 こうした精神風土の中では、どうしても闘争は持続し難いし、発火後の熱量を継続的に再生産する能力も不足を来すから、概ね短期爆発型の闘争形態を主特徴にすることになるだろう。少なくとも、欧米人と比較すれば相対的に脂肪摂取量が少ない「農耕民族的資質」(?)が手伝ってか、この国の人々の発火点は決して低くないが、それ故にと言うべきか、発火後の爆発は激甚な傾向を帯びやすく、それが自制困難な加速的変化を示すというケースも稀ではないように思われるのだ。

 かくて我が国では、「急転直下の心理学」が劇的に検証される瞬間こそが、歴史的事件として人々の記憶に収納されていく。

 しかし「急転直下」の大激震を惹起させるに至る、気の遠くなるような我慢の累積時間がそこに潜んでいたことを無視することは難しいだろう。この国の人々は、その発火点の低さから状況に過敏に反応する類の、闘争衝動的な情動だけで激発する愚かさとはどこかで切れている、と私は考えたい。

 この国の短期爆発的思考の基本的欠陥は戦略的思考の脆弱さにあると思われるが、それは自分の家族や村落が襲われるかも知れないという恒常的不安から相対的に解放されてきた歴史に、少なからず親しんできた文化的風土の所産であるだろう。
 
 当然の如く、それ自体、何ら非難されるべき事柄ではないが、この国が困難な外交状況の圧力に晒されるときなどに、そんな事態に対して果断な対応を導き得る異質の思考が要請されながらも、結論を先に延ばす「ぶらかし戦術」などで当座の危機を乗り越えるスキルを適当に繋いでいって、そこで拾った時間の隙間の中でより有効な出口を模索するという方略以外に、この国の為政者は反応できにくくなっているように見えるのだ。
そこで急場凌ぎの戦術をパッチワーク的に貼り合わせたものが、しばしば、この国では戦略となると言ったら言い過ぎだろうか。

 その類の戦略が様々に分化した戦術を規定する合理主義の内化が、より脂肪分の多い食事を摂取する民族に比べて、我が国では相対的に脆弱である事実を否定することは難しく、とりわけ、異質の宗教観・価値観を有する闘争集団と、政治的・外交的に切り結んでいく能力に見劣りするのは如何ともし難いのである。

 そのことで印象深いのは、ペリー来航の際の、一部の日本人の特攻的な反応の様態である。

 黒船が浦賀に来航したとき、時の老中阿部正弘が「黒船退治案」を一般募集したという史実が残っていて、それによると、献策の大半が「回答延期」(ぶらかし戦術)を求めるものであったと言われている。(因みに、2004年に広島県立博物館で見つかった、阿部正弘自身による「御出陣御行列役割写帳」には、最悪の事態を想定した軍事的対応の「有事マニュアル」が記されていた) 

 面白いのは、こうしたぶらかし提案の中に混じって、幾つかの過激策が色を添えていることだ。その中には、黒船に潜入して火薬庫を爆発するというものや、船底のギヤマンの窓枠を外して海水を呼び込み、一気に沈没を図るなどという、およそ受け入れ難いラジカルな献策が含まれていたらしいが、いずれも「戦術の有効性」というレベルを全く超えていないのが、如何にも日本人的であるような気がする。

 少数意見とは言え、黒船を沈ませたらどれだけ高くつくかという、普通の損得感覚にすら届かない能天気さは殆ど闘争者の属性ではないと言えるだろう。これは明らかに、短期決着型の発想に親しむ者の態度であり、闘争の真価が「持続性」の中でこそ検証されるという厳しさを学習内化していない者の態度と言っていい。

 蓋(けだ)し、最強の闘争者とは、闘争を持続させる者であり、その持続を支えるエネルギーを内側で再生産できる者であり、それらを可能づける堅固な物語を絶対的に有する者である。詰まる所、この国の人々が最強の闘争者になれないのは、以上の条件を比較相対的に不足させているからであり、その条件を保有することで、何か決定的な局面で有効に出し入れでき得るに足る分量が、いつも少しずつ届かないのである。

 「黒船退治案」に見られた、「当座の乗り越え」重視の「その場凌ぎのリアリズム」という矛盾が、結局は戦略的闘争者に容易に変容できないのにも拘らず、有無を言わせず、当時の欧米列強が主導する国際力学の最前線に引き摺り込まれていく中で、いたずらに深まっていったのは、この上ない不幸であったとも言えようか。
 
 脂肪摂取量が少ない「農耕民族的資質」を持つと言われる国の人々が、沸騰しきった状況下においてもなお、容易に一揆主義的な戦闘方略をクリアできないからこそ、欧米列強の恫喝外交の格好の餌食からの決死の覚悟の要請によって、時代の大きな枠組みの変容が必然化され、それがまもなく、その類の精神を持つ一群の若者たちによって具現化されていったのは、それ以外にない決定的な転形期を迎えた歴史の必然性とも言えるだろうか。


(「心の風景/この国の「闘争心」の形」より)http://www.freezilx2g.com/2009/03/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)