1 敗者をも特定する「近代スポーツの本質」
「曖昧な国の、曖昧な文化」の欺瞞性に地団駄を踏んでいたとき、偶(たま)さか、同時進行で「サッカーW杯南アフリカ大会」のテレビ中継があった。
テレビ中継は、大方の予想を裏切って、我が国は1次リーグを2位で勝ち上がって、パラグアイとの決勝トーナメントの大一番。
どちらも、史上初のベスト8を賭けた決戦である。
その結果は、今更言うまでもなく、無得点で流れ込んだ延長戦の末の、PK戦で雌雄が決した試合。
その試合のライブ中継での緊張感を味わう中で、私はまさに「近代スポーツの本質」を見た思いだった。
「近代スポーツの本質」―― それは、必ず勝者を作り出すことである。
勝者を作り出すということは、敗者をも特定するということだ。
いや正確に言えば、W杯決勝トーナメントでのPK戦こそ、このゲームの直接的な敗因を被る選手を作り出すために存在する、あまりに苛酷な神経戦である。
敗因を被る選手を特定するPK戦の中では、チームプレーよりも、個人技とメンタル面の均衡による優劣の差がが明瞭に出てしまうので、それは最も残酷なプレーであるとも言える。
予想通りと言うべきか、「曖昧な国の、曖昧なスポーツ文化」を持つ代表チームが敗北するに至った。
この国にとって、未知の領域に踏み込んだ戦況の中では、その戦況に構える精神的条件が相対的に不足しているというのが、私の考えである。
W杯のPK戦の歴史を見ると、ドイツ(西ドイツを含む)が圧倒的に強く、イングランドが圧倒的に弱いというデータが意味するものを、安直に「闘争心の差」と決め付けられないが、2002年W杯日韓大会の準々決勝で、韓国がスペインに5-3で勝利した事実を想起するとき、強(あなが)ち「民族の矜持」とか、「断崖を背にしたときの闘争心の差」の問題も的外れでないかも知れない。
そんなことを考えるとき、徹底して苛酷な神経戦である、W杯決勝トーナメントでのPK戦において、我が国はまさに負けるべくして負けたとも言えないだろうか。
以下、「近代スポーツの本質」を再考することで、今大会での「岡田JAPAN」の、「戦争の代用品」としてのW杯戦について考えてみたい。
2 サッカーに同居する近代性と原始性
以下、かつて私が書いた、「スポーツの風景」を部分的に引用・加筆しつつ言及する。
近代スポーツが、勝者と敗者を作り出す飛び切りの娯楽であるという現実は、もう否定しようがないだろう。
勝つか負けるかというところまで流れ着かないと、多くの人々の自我が落ち着かないのである。
それが、近代社会に呼吸を繋ぐ者たちの宿命である。
古い例だが、レヴィ=ストロースの「現代世界の人類学」(サイマル出版会刊)によると、ニューギニアの高地族にサッカーを教えたら、人々はサッカーに興じつつも、いつまで経っても勝敗によるゲームの決着をつけようとせず、だらだらとゲームを続けているばかりであった、という興味深い実話が紹介されている。
前近代社会では、ビッグマンと呼ばれる長老を頂点とする、「秩序づけられた平等主義」というものが共同体のコアにあって、たとえスポーツと言えども、この原理を壊しかねないような勝敗の決着は付けられないのである。
人々を動かす原理が異なる社会では、スポーツの受容の仕方も異なるということだ。
と言うより、前近代社会には「スポーツ」という概念そのものがなく、それに似たものは悉(ことごと)く、「遊び」の概念の内に収まってしまうのである。
それらは、身体を動かすゲームという意味において、確かに身体運動文化という範疇に含まれるだろう。
しかし、ロジェ・カイヨワの言う、「競争」と「偶然」という要素(彼は「遊び」を、「模擬」、「眩暈(げんうん)」→「競争」、「偶然」という流れで定義した)が稀薄で、近代スポーツに特徴的な偶発的熱狂というものが、そこにはない。
それは、気晴らし以上の何かではない。
それらは関係的秩序を維持する手段でもあるから、当然の如く、共同体社会に深々と依拠する彼らが敗者を作り出す危険を敢えて冒す訳がないのである。
この違いが、両者を決定的に分けるのだ。
近代スポーツでは、敗者の創出を不可避とする。
敗者の創出によって、勝者は初めて価値を持つ。
だから或る意味で、敗者の創出こそ近代スポーツの本質であるとも言えるのだ。
誰が誰に負けたか。どのように負けたか。
それが、ここでは重要なのだ。
狂わんばかりに地団駄を踏んで悔しがる敗者を相対化することで、初めて勝者の栄光を価値づける。
良かれ悪しかれ、これが近代スポーツなのである。
たとえ負けても、直ちに仲直りする「遊び」の秩序との違いは明瞭である。
近代スポーツは、「戦争の代用品」だったということだ。
死体を出さない代わりに、敗者にはとことん悔しがってもらう。
恨んでもらってもいい。でも、そこに一定のルールを設ける。
その悔しさや恨みは、あくまでもフィールドやピッチの中で返報してもらう。
当然の如く、フィールドの中のルールは守ってもらう。
そのルールに則って、フィールドの限定的な枠内で競争するのである。
これが、近代スポーツの枢要なテーマの一つなのだ。
このテーマを殆ど写し取ってきたのが、サッカー・ワールドカップである。
それは一種の南北戦争であり、欧州内覇権戦争であり、しばしば本物の戦争のリベンジであり、時には本物の戦争への起爆剤にもなってしまった。
それは、オリンピックの熱狂の更に上を駆けて、まさに、近代スポーツの本質と典型を集中的に映し出す。
そして、ボールとゴールポスト以外の余計な装飾の一切を剥ぎ取って、人の進化の象徴である頭と脚のみを駆使して、一点を捥(も)ぎ取る最も原始的、且つ、抜きん出て格闘的なスポーツ。
このサッカーというスポーツこそ、人が昔、狩人であった記憶の残像を炙り出すのに充分過ぎるネイティブな競技なのである。
サッカーに同居する近代性と原始性。
その象徴性こそ、キング・オブ・スポーツの名に相応しいとも言えるのだ。
3 圧倒的競争圧が負荷する苛酷な神経戦としてのPK戦
ゲームの直接的な敗因を被る選手を作り出すために存在する、W杯決勝トーナメントでのPK戦。
1982年大会で初採用された、この苛酷な神経戦の只中に、サッカーの究極的な怖さが内包する。
ところで、「PK戦は運。公平ではない」との意見も根強いが、ではなぜ、決勝トーナメントのPK戦において、前述したように、そこでの勝敗国に偏りが出てしまうのか全く説明できないのだ。
PK戦に「運」が全く関与しないとは思えないが、それ以上に、それは一個人に圧倒的競争圧が負荷する苛酷な神経戦であるという事実の把握こそ重要であって、その意味から言えば、これ以上の「勝負」は存在しないのだ。
「公平ではない」とクレームをつける者は、圧倒的競争圧が負荷する苛酷な神経戦であるというPK戦の「勝負」の有りようを無視しているか、それとも、PK戦におけるメンタル面の相対的脆弱さを認知することから逃げているだけである。
更に言えば、前述したように、「競争」と「偶然」という要素の結合こそが、近代スポーツに特徴的な偶発的熱狂を作り出す手品でもあるということだ。
そして何より、これは「ルール」の問題であって、その「ルール」の結果による不満を、事後非難する行為自体アンフェアではないのか。
その「ルール」に不満なら、個々のスポーツシーンでの外交努力で是正する努力をすべきなのだ。
それなしに、メディアを介して不満を垂れるのは、幼児的発想以外ではないだろう。
テーマを戻そう。
W杯決勝トーナメントでのPK戦。
そこでは、一次リーグのように、「引き分け」でも勝ち点が手に入る中途半端さは許されないのである。
もっとはっきり言えば、プレーの「流れ」の中で辛うじて保持される「日本人の闘争心」が、一転して、そこに形成された「間」の中で「勝負」を強いられる、「1対1」の苛酷な神経戦では、からきしフル稼働しない、メンタル面の相対的脆弱さが晒されてしまうのだ。
W杯決勝トーナメントでのPK戦では、シュートを成功させた者の名は忘れられ、シュートを失敗した者の名だけが記憶され続けるのである。
それ故、「絶対にしくじることは許されない」という圧倒的で強迫的な競争圧が、一気に緊張感を加速する「間」の中で、一個人の自我に伸し掛かってくる。
当然、そこに尋常ではないレベルのプレッシャーが内側で騒いでいるに違いない。
私の定義によると、プレッシャーとは、「絶対に失敗(敗北)してはならないという意識と、もしかしたら失敗(敗北)するかもしれないという、二つの矛盾した意識が同居するような心理状態」である。
そのため、固有の身体が記憶した高度な技術が、ゲームの中で心地良き流れを作り出せない不自然さを露呈してしまうのだ。
この二つの矛盾した意識が自我の統括能力を衰弱させ、均衡を失った命令系統の混乱が、恐らく、神経伝達を無秩序にさせることで、身体が習得したスキルを淀みなく表出させる機能を阻害してしまうのではないか。
従って極論を言えば、その特殊な状況下では、普通のゲームでのPKの成功率など何の参考にもならないだろうということだ。
「W杯決勝トーナメントでのPK戦」に負けない「勝負強さ」のみが最も重要な要素であるに違いない。
「岡田JAPAN」は、それに負けた。
その現実をリアルに受容すべきである。
それだけのことだ。
(「心の風景/情感的軟着点によって雲散霧消した「岡田JAPAN」 ―― その風景のくすんだ変色 」より)http://www.freezilx2g.com/2010/07/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)
「曖昧な国の、曖昧な文化」の欺瞞性に地団駄を踏んでいたとき、偶(たま)さか、同時進行で「サッカーW杯南アフリカ大会」のテレビ中継があった。
テレビ中継は、大方の予想を裏切って、我が国は1次リーグを2位で勝ち上がって、パラグアイとの決勝トーナメントの大一番。
どちらも、史上初のベスト8を賭けた決戦である。
その結果は、今更言うまでもなく、無得点で流れ込んだ延長戦の末の、PK戦で雌雄が決した試合。
その試合のライブ中継での緊張感を味わう中で、私はまさに「近代スポーツの本質」を見た思いだった。
「近代スポーツの本質」―― それは、必ず勝者を作り出すことである。
勝者を作り出すということは、敗者をも特定するということだ。
いや正確に言えば、W杯決勝トーナメントでのPK戦こそ、このゲームの直接的な敗因を被る選手を作り出すために存在する、あまりに苛酷な神経戦である。
敗因を被る選手を特定するPK戦の中では、チームプレーよりも、個人技とメンタル面の均衡による優劣の差がが明瞭に出てしまうので、それは最も残酷なプレーであるとも言える。
予想通りと言うべきか、「曖昧な国の、曖昧なスポーツ文化」を持つ代表チームが敗北するに至った。
この国にとって、未知の領域に踏み込んだ戦況の中では、その戦況に構える精神的条件が相対的に不足しているというのが、私の考えである。
W杯のPK戦の歴史を見ると、ドイツ(西ドイツを含む)が圧倒的に強く、イングランドが圧倒的に弱いというデータが意味するものを、安直に「闘争心の差」と決め付けられないが、2002年W杯日韓大会の準々決勝で、韓国がスペインに5-3で勝利した事実を想起するとき、強(あなが)ち「民族の矜持」とか、「断崖を背にしたときの闘争心の差」の問題も的外れでないかも知れない。
そんなことを考えるとき、徹底して苛酷な神経戦である、W杯決勝トーナメントでのPK戦において、我が国はまさに負けるべくして負けたとも言えないだろうか。
以下、「近代スポーツの本質」を再考することで、今大会での「岡田JAPAN」の、「戦争の代用品」としてのW杯戦について考えてみたい。
2 サッカーに同居する近代性と原始性
以下、かつて私が書いた、「スポーツの風景」を部分的に引用・加筆しつつ言及する。
近代スポーツが、勝者と敗者を作り出す飛び切りの娯楽であるという現実は、もう否定しようがないだろう。
勝つか負けるかというところまで流れ着かないと、多くの人々の自我が落ち着かないのである。
それが、近代社会に呼吸を繋ぐ者たちの宿命である。
古い例だが、レヴィ=ストロースの「現代世界の人類学」(サイマル出版会刊)によると、ニューギニアの高地族にサッカーを教えたら、人々はサッカーに興じつつも、いつまで経っても勝敗によるゲームの決着をつけようとせず、だらだらとゲームを続けているばかりであった、という興味深い実話が紹介されている。
前近代社会では、ビッグマンと呼ばれる長老を頂点とする、「秩序づけられた平等主義」というものが共同体のコアにあって、たとえスポーツと言えども、この原理を壊しかねないような勝敗の決着は付けられないのである。
人々を動かす原理が異なる社会では、スポーツの受容の仕方も異なるということだ。
と言うより、前近代社会には「スポーツ」という概念そのものがなく、それに似たものは悉(ことごと)く、「遊び」の概念の内に収まってしまうのである。
それらは、身体を動かすゲームという意味において、確かに身体運動文化という範疇に含まれるだろう。
しかし、ロジェ・カイヨワの言う、「競争」と「偶然」という要素(彼は「遊び」を、「模擬」、「眩暈(げんうん)」→「競争」、「偶然」という流れで定義した)が稀薄で、近代スポーツに特徴的な偶発的熱狂というものが、そこにはない。
それは、気晴らし以上の何かではない。
それらは関係的秩序を維持する手段でもあるから、当然の如く、共同体社会に深々と依拠する彼らが敗者を作り出す危険を敢えて冒す訳がないのである。
この違いが、両者を決定的に分けるのだ。
近代スポーツでは、敗者の創出を不可避とする。
敗者の創出によって、勝者は初めて価値を持つ。
だから或る意味で、敗者の創出こそ近代スポーツの本質であるとも言えるのだ。
誰が誰に負けたか。どのように負けたか。
それが、ここでは重要なのだ。
狂わんばかりに地団駄を踏んで悔しがる敗者を相対化することで、初めて勝者の栄光を価値づける。
良かれ悪しかれ、これが近代スポーツなのである。
たとえ負けても、直ちに仲直りする「遊び」の秩序との違いは明瞭である。
近代スポーツは、「戦争の代用品」だったということだ。
死体を出さない代わりに、敗者にはとことん悔しがってもらう。
恨んでもらってもいい。でも、そこに一定のルールを設ける。
その悔しさや恨みは、あくまでもフィールドやピッチの中で返報してもらう。
当然の如く、フィールドの中のルールは守ってもらう。
そのルールに則って、フィールドの限定的な枠内で競争するのである。
これが、近代スポーツの枢要なテーマの一つなのだ。
このテーマを殆ど写し取ってきたのが、サッカー・ワールドカップである。
それは一種の南北戦争であり、欧州内覇権戦争であり、しばしば本物の戦争のリベンジであり、時には本物の戦争への起爆剤にもなってしまった。
それは、オリンピックの熱狂の更に上を駆けて、まさに、近代スポーツの本質と典型を集中的に映し出す。
そして、ボールとゴールポスト以外の余計な装飾の一切を剥ぎ取って、人の進化の象徴である頭と脚のみを駆使して、一点を捥(も)ぎ取る最も原始的、且つ、抜きん出て格闘的なスポーツ。
このサッカーというスポーツこそ、人が昔、狩人であった記憶の残像を炙り出すのに充分過ぎるネイティブな競技なのである。
サッカーに同居する近代性と原始性。
その象徴性こそ、キング・オブ・スポーツの名に相応しいとも言えるのだ。
3 圧倒的競争圧が負荷する苛酷な神経戦としてのPK戦
ゲームの直接的な敗因を被る選手を作り出すために存在する、W杯決勝トーナメントでのPK戦。
1982年大会で初採用された、この苛酷な神経戦の只中に、サッカーの究極的な怖さが内包する。
ところで、「PK戦は運。公平ではない」との意見も根強いが、ではなぜ、決勝トーナメントのPK戦において、前述したように、そこでの勝敗国に偏りが出てしまうのか全く説明できないのだ。
PK戦に「運」が全く関与しないとは思えないが、それ以上に、それは一個人に圧倒的競争圧が負荷する苛酷な神経戦であるという事実の把握こそ重要であって、その意味から言えば、これ以上の「勝負」は存在しないのだ。
「公平ではない」とクレームをつける者は、圧倒的競争圧が負荷する苛酷な神経戦であるというPK戦の「勝負」の有りようを無視しているか、それとも、PK戦におけるメンタル面の相対的脆弱さを認知することから逃げているだけである。
更に言えば、前述したように、「競争」と「偶然」という要素の結合こそが、近代スポーツに特徴的な偶発的熱狂を作り出す手品でもあるということだ。
そして何より、これは「ルール」の問題であって、その「ルール」の結果による不満を、事後非難する行為自体アンフェアではないのか。
その「ルール」に不満なら、個々のスポーツシーンでの外交努力で是正する努力をすべきなのだ。
それなしに、メディアを介して不満を垂れるのは、幼児的発想以外ではないだろう。
テーマを戻そう。
W杯決勝トーナメントでのPK戦。
そこでは、一次リーグのように、「引き分け」でも勝ち点が手に入る中途半端さは許されないのである。
もっとはっきり言えば、プレーの「流れ」の中で辛うじて保持される「日本人の闘争心」が、一転して、そこに形成された「間」の中で「勝負」を強いられる、「1対1」の苛酷な神経戦では、からきしフル稼働しない、メンタル面の相対的脆弱さが晒されてしまうのだ。
W杯決勝トーナメントでのPK戦では、シュートを成功させた者の名は忘れられ、シュートを失敗した者の名だけが記憶され続けるのである。
それ故、「絶対にしくじることは許されない」という圧倒的で強迫的な競争圧が、一気に緊張感を加速する「間」の中で、一個人の自我に伸し掛かってくる。
当然、そこに尋常ではないレベルのプレッシャーが内側で騒いでいるに違いない。
私の定義によると、プレッシャーとは、「絶対に失敗(敗北)してはならないという意識と、もしかしたら失敗(敗北)するかもしれないという、二つの矛盾した意識が同居するような心理状態」である。
そのため、固有の身体が記憶した高度な技術が、ゲームの中で心地良き流れを作り出せない不自然さを露呈してしまうのだ。
この二つの矛盾した意識が自我の統括能力を衰弱させ、均衡を失った命令系統の混乱が、恐らく、神経伝達を無秩序にさせることで、身体が習得したスキルを淀みなく表出させる機能を阻害してしまうのではないか。
従って極論を言えば、その特殊な状況下では、普通のゲームでのPKの成功率など何の参考にもならないだろうということだ。
「W杯決勝トーナメントでのPK戦」に負けない「勝負強さ」のみが最も重要な要素であるに違いない。
「岡田JAPAN」は、それに負けた。
その現実をリアルに受容すべきである。
それだけのことだ。
(「心の風景/情感的軟着点によって雲散霧消した「岡田JAPAN」 ―― その風景のくすんだ変色 」より)http://www.freezilx2g.com/2010/07/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)