優しい文化

 一体、この国の人たちは、いつ頃から、このように、「感動」への渇望感を意識し、それを常に埋めようと騒ぎ出すようになったのだろうか。(写真はスローフードロゴマーク

 思えば、「一児豪華主義」の社会的定着の中で、生まれついたときから、「この眼に入れても痛くない」と思わせる程の愛情を被浴するという絶対環境下で、強力なバリアを誇る免疫力を周囲の環境が全面的に負担することで、その幼い自我に様々に襲い来る負荷を削り取ってしまうとき、そこに無菌状態に晒された自我が心地良く立ち上げられていくことになる。心地良く立ち上げられた自我は、暫くは、無菌の箱庭で天真爛漫に乱舞するが、いつまでも免疫力を必要としない時間に遊べる訳ではないのだ。

 いつかは、「社会」という名のカルチャー・ショックの洗礼をたっぷりと被浴するとき、そこに、他人の感情を受容するキャパシティの狭隘さが露呈されて、少しでも、その貧弱なる経験則とクロスしない状況下で現出する、刺激的な情報処理に関わる混乱が、自我抑制力の劣化を白日の下に炙(あぶ)り出していくに違いない。
 
 「切れる若者」の根源には、扁桃核(へんとうかく)からの尖った情報を前頭前野が充分に対応できないという脳科学的問題があるとされるが、言葉を換えれば、「自我(前頭前野?)の社会化の顕著な未発達」という説明によって検証されるものである、と私は確信している。

 要するに、自我の未成熟なる者たちが、思春期の身体変容を通過することで、「心と体」、「自分と他者」、「私的状況と社会的状況」という基本的関係が内包する様々な葛藤因子を、その根幹の大切な部分を削ることなく上手に尖りを修復し、そこに柔和で均衡を保持する自我を形成するに至る、最適な着地点を持たない生育状況の貧困さこそ、多くの少年事件の根柢に伏在するということである。

 ともあれ、こんな環境下で生育した未成熟なる自我は、当然の如く、幼児期の無菌なる「箱庭の世界」への原点回帰を希求するだろう。

 ひどく未成熟でない自我の持ち主なら、原点回帰の不可能を了解できているから、自分だけが帝王然と振舞っていられる世界に、自らを投げ込むことの危うい選択を回避するに違いない。

 しかし、その選択を回避した者たちの内側に、それでも優しく慰撫(いぶ)し、微笑んでくれる何ものかを、どこかで常に必要とするはずである。それを渇望する心が、いつでも、「感動」と「癒し」を性急に求めて止まなくなるのだ。

 それは、自らの自我が社会的リアリティの厳しい洗礼を受けてもなお、その前線に留まらせる現実的必要性を認知できる程度の、自我の社会化が達成されているならば、社会的現実の様態と、自分の能力や感情傾向の落差の把握に意識が追いついて、社会的逸脱を拒む意志の立ち上げによって、前線への適応を可能にする範疇で、彼らは彼らなりの、モラトリアムの行使を躊躇(ためら)わないことを意味するであろう。

 それで良いのである。

 しかし、その不安定な時間の内に生じた空洞感を、「優しい文化」に浸そうと流れるのはあまりに当然なる事態と言うべきなのだ。即ち、対人関係で生じたストレスや空洞感を中和し、それを浄化し得る思いへの補償こそ、彼らの自我の揺曳(ようえい)する、極めて大きなモチベーションであると思われるのである。

 もう一つ。こちらの方が重要であるかも知れない。

 それは、大上段に構えて言えば、トラブルや争いを忌み嫌うこの国の「農耕民族的」(?)なメンタリティという、言わば、文化論の問題に収斂される何かである。

 安定した封建体制下で、特段の争いもなくその一生を終えたに違いない、この国の名もなき人々の多くの自我に鏤刻(るこく)された、「分」の思想による安定的な精神基盤が、近代への唐突な侵入によって、「苦学の思想」が解き放たれた。

 そればかりか、列強支配の絶対的な権力関係の僅かな隙間の内に延命を賭けたこの国の近代は、結局、不慣れな侵略戦争を仕掛けたことで、完膚なきまでに叩きのめされてしまったのだ。「農耕民族」のキャパシティを超えた歴史のミスリードのペナルティはあまりに大きかったのである。

 この民族は、そこに嘆息する間もなく占領体制下に置かれ、独立した国民国家の体裁をとりながらも、実質的には、自国の安全保障を経済力で買うという歪んだ戦後史に張り付いた疑念を、巧みに封じ込める「同盟神話」によって何とか乗り越えてきたのは言うまでもない。
 
 そこに、「水と安全は無料(ただ)」という信じ難い発想が蔓延するに至ったのは、元々、この国が嫌な過去をすぐ忘れられる「農耕民族的」(?)なメンタリティに起因する。それを私は、「取得のオプチミズム」と呼んでいる。「一度手に入れた安全は崩れる訳がない」と平気で考えられる人々がゴマンといるような国に、私たちは住んでいるのだ。

 いつか、テレビの討論番組のアンケートで、「安全だから、軍隊はいらない」というファックスを寄せた人がいた。44歳の中年男性が、こんな信じ難い言葉を平気でテレビ局に寄せる現実が、まだこの国には残っていることに、私は驚愕した。まさにそれは、「取得のオプチミズム」の典型例と言っていい。

 しかし近年、このメンタリティが少しずつ亀裂を生じてきた。

 相次ぐ凶悪犯罪の連日の報道によって、人々は「安全神話」に疑問を持ち始めてきたのである。この国の人々が一度このような疑念を持ち、それを刺激的に過剰に膨らませるメディアの恣意的な報道によって情報が固められてしまえば、その疑念は大いなる不安に直結する。すると、この国の人々の、その免疫力の稀薄な様態がセンシブルなまでに晒されて、一種のパニックのような現象が招来することになる。これを私は、「喪失のペシミズム」と呼んでいる。今や、この「喪失のペシミズム」が、この国を深い霧の中に包み込んでいるのである。

 「取得のオプチミズム」と「喪失のペシミズム」は、表裏一体の関係である。前者が崩れると後者に流れ、後者が修復されると、簡単に前者に流れてしまうのである。

 このような繊細なメンタリティを持つ国の人々が、今、「少子高齢化の危機」や「年金取得の危機」、「温暖化による環境の危機」、「食の安全の危機」、「医療福祉の破綻の危機」、「自然災害の危機」、更に、「年少少年による凶悪犯罪」や「子供たちの安全の危機」などに極めて過敏に反応し、そこに他人事では済まされない不安感を抱いている。

 「喪失のペシミズム」が、まさに私たちの日常性を覆い尽くしているのである。これは、子供を持つ中高年世代の意識に喰らい付いていて、その尖りを簡単に削り取れない不安感情を炙り出してしまっているかのようだ。

 このような不安が高まれば高まる程、私たちはその心の隙間に生じた負性的な感情を、何ものかによって補償しようとする意識が生まれるだろう。

 この時代下にあって、人々が「感動」や「癒し」に、それを求めるかのように流れ込んでいくラインの必然性を、果たして否定できるだろうか。「喪失のペシミズム」は、「今まさに、そこにある危機」の不安意識の顕在化であって、私たちの意識の拠って立つ土台をじわじわと、しかし確実に、名状し難い恐怖感を乗せて、その濁りの液体を深々と浸し始めているのかも知れないのだ。

 「高速化」を不可避とする近代社会の過剰なる利便性に、簡便に馴染みにくい自我にとってもまた、それが日々に薄皮一枚ずつ剥がされていくような圧迫感を、どこかで認知してしまったら、その削られゆくものを修復し、そこに命の輝きを吹き込もうとする試みは、寧ろ、生理的法則の流れに沿っていると言える。

 スローライフを求めて山野に遊び、細(ささ)やかな道修行に寄り道し、或いは、様々なる「優しい文化」に身を投げ入れようとする試みもまた、この時代に呼吸する人々の生理的な自然現象であるだろう。

 「優しい文化」のコアにあるものこそ、「感動」や「癒し」なのである。

 「感動」と「癒し」を渇望する時代の只中に、私たちは呼吸を繋いでいるかも知れないのだ。だからこそ、私には「感動」と「癒し」の浮薄な内実性と重量感が、ひどく気になってしまうのである。

 
(「心の風景/優しい文化」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_648.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)