11人の迷走する男たちの人間的なる振れ方  文学的な、あまりにも文学的な

 
十二人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督)という有名な作品がある。

 一人の強靭な意志と勇気と判断力を持った男がいて、その周りに11人の個性的だが、しかし、決定的判断力と確固たる信念による行動力に些か欠如した、言ってみれば、人並みの能力と感情の継続性を保有するレベルの者たちがいた。

その中には、理屈に偏向する者や、感情や経験に大きく振れていく者もいたが、しかし決定的局面では、決定的判断力を示した一人の男の、その一貫した主張のうちに吸収されてしまう継続力の脆弱さを、まるで敗者の如く露呈してしまったのである。

 しかし、よくよく考えてみれば、11人の者たちが示した人間的な思考や感情こそが、通常の生活次元での表現であったと言っていい。

なぜならば、状況に応じて振れていくのが人間であり、その状況が展開した変化のうちに真実が見えてくれば、その真実に対して肯定的に反応していくのが、人間の平均的な行動の様態であると言えるからだ。

 従って、この映画は優れた傑作であることは否めないが、しかし、一人の「平凡」な顔をした「スーパーマン」によって、極めて困難な空気を決定的に洗浄させてしまった作品として、ハリウッド好みの「奇跡の英雄譚」の範疇に収斂されてしまったのである。

それは、常に強い指導者を希求して止まない、、「アメリカ」という特殊な文化風土が生み出したヒーロー譚と言って良かった。

裏返せば、「アメリカ」という、多くの民族を束ねる帝国的な国家に呼吸を繋ぐ者たちが、泡立つ空気を浄化するに足る切実な需要が沸点に達したときに、そのようなヒーローを必要とせざるを得ない強面(こわもて)の過剰さを、納得ずくの充分な供給の保証によって自足させることで、「アメリカ」という物語を引っ張り続けていく気苦労と切れない辛さをも印象づけてしまうのである。

 
(心の風景 /11人の迷走する男たちの人間的なる振れ方  文学的な、あまりにも文学的な )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/06/blog-post_8690.html(7月5日よりアドレスが変わりました)