視覚の氾濫  文学的な、あまりにも文学的な

 沈黙を失い、省察を失い、恥じらい含みの偽善を失い、内側を固めていくような継続的な感情も見えにくくなってきた。

多くのものが白日の下に晒されるから、取るに足らない引き込み線までもが値踏みされ、僅かに放たれた差異に面白いように反応してしまう。

終わりが見えない泡立ちの中では、その僅かな差異が、何かいつも決定的な落差を示しているようにならなくなる。
陰翳の喪失と、微小な差異への拘り。

この二つは無縁ではない。

陰翳の喪失による、フラットでストレートな時代の造形が、薄明で出し入れしていた情念の多くを突き崩し、深々と解毒処理を施して、そこに誰の眼にも見えやすい読解ラインを無秩序に広げていくことで、安易な流れが形成されていく。

そこに集合する感情には、個としての時間を開いていくことの辛さが含まれている分だけ差異に敏感になっていて、放たれた差異を埋めようとする意志が、ラインに乗ってもがくようにして流れを捕捉しにかかる。

流れの中の差異が取るに足らないものでも、拘りの強さが、そこで差異感性をいつまでも安堵させないのである。
 
 
(心の風景 /視覚の氾濫  文学的な、あまりにも文学的な )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/06/blog-post_6304.html(7月5日よりアドレスが変わりました)