尊厳死の問題の難しさと深淵さ  文学的な、あまりにも文学的な

「自我が精神的、身体的次元において、統御可能な範囲内にある様態」―― 私はそれを「人間らしさ」と呼ぶ。


例えば、耐え難いほどの肉体的苦痛が継続するとき、間違いなく自我は悲鳴を上げ、その苦痛の緩和を性急に求める。

しかし、その緩和が得られないとき、その自我は確実に抑制力を失い、破綻の危機を迎えるだろう。

或いは、身体の四肢麻痺状態が、その身体の死に及ぶまで永久に続くことが回避できないとき、その患者は自分の身体の介助を他者に絶対依存しない限り、その生存の保障はない。

従って、その患者は、自らの身体の清拭を他者に依存するばかりか、排泄の全面的な介助をも求めざるを得ない。

カテーテルによる排尿を世話してもらったり、糞便の処理まで依存したりすることになるのだ。

たとえそこに、相手の善意を感じ取ることができたとしても、「絶対依存」とも言える、その現存在性を何十年もの間延長させてきた挙句、機能を失って、殆ど別の物体と化した自己の身体に一貫して馴染むことができず、更にその自我が、それ以前から作ってきた自己像との矛盾を克服できないとき、人はそこに、自らの人格としての尊厳を受容することが可能だろうか。

「人間らしさ」の喪失とは、以上の例で明瞭である。

即ちそれは、自我が自らの現存在性と折り合うことができない状態のことであり、まさに、その折り合いのレベルこそが人間の尊厳の度合いであると言っていい。

私たちが人間の尊厳について定義するとき、どうしてもそこに抽象的なニュアンスが含まれてしまうのは、個々の尊厳観が微妙に異なり、極めて、その相対度が高いからである。

そこにこそ、尊厳死の問題の難しさと深淵さがあるのだ。
 
 
(心の風景 /尊厳死の問題の難しさと深淵さ  文学的な、あまりにも文学的な )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/06/blog-post_27.html(7月5日よりアドレスが変わりました)