赦しの心理学

イメージ 1人が人を赦そうとするとき、それは人を赦そうという過程を開くということである。(画像は、「赦し」をテーマにした映画・「息子のまなざし」より)

 人を赦そうという過程を開くということは、人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いが、人を赦そうとする人の内側に抱え込まれているということである。

 人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いとは、人を赦そうという思いを抱え込まねばならないほどの赦し難さと、否応なく共存してしまっているということである。

 私たちは、人を赦そうという思いを抱え込んでしまったとき、同時に赦し難さをも抱え込んでしまっているのである。

 これがとても由々しきことなのだ。

 相手の行為が、私をして、相手を赦そうという思いを抱え込ませることのない程度の行為である限り、私は相手の行為を最初から受容しているか、または無関心であるかのいずれかである。

 相手の行為が、私をして相手を赦そうという思いを抱かせるような行為であれば、私は相手の行為を否定する過程をそれ以前に開いてしまっているのである。

この赦し難い思いを、自我が無化していく過程こそ赦すという行為の全てである。

 赦しとは、自我が空間を処理することではない。

 自我が開いた内側の重い時間を自らが引き受け、了解できるラインまで引っ張っていく苦渋な行程の別名である。
 
 従って、笑って赦そうなどという欺瞞的な表現を、私は絶対支持しない。

 笑って赦せる人は、最初から赦さねばならない時間を抱え込んでいないのである。

 赦す主体にも、赦される客体にも、赦しのための苦渋な行程の媒介がそこにないから、愛とか、優しさとかいう甘美な言葉が醸し出すイメージに、何となく癒された思いを掬(すく)い取られてしまっている。

 あまりにビジュアルな赦しのゲームが、日常を遊弋(ゆうよく)することになるのだろう。

 人を赦すとき、私たちの内側には、既に、相手に対する赦し難さをも抱え込んでしまっているのだ。
 
 
 
(心の風景/赦しの心理学 )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2010/09/blog-post.html