ブラック・スワン('10) ダーレン・アロノフスキー  <最高芸術の完成形が自死を予約させるアクチュアル・リアリティの凄み>

イメージ 11  「過干渉」という名の「権力関係」の歪み



かつて、バレエダンサーだった一人の女がいる。

ソリストになれず、群舞の一人でしかなかった件の女は、それに起因するストレスが昂じたためなのか、女好きの振付師(?)と肉体関係を持ち、妊娠してしまった。

妊娠したことでバレエダンサーとしての夢が断たれた女は、その妊娠によって産まれた女児に対して、自分の果たせなかった夢を仮託する。

バレエダンサーの寿命の短さを考えても、その夢を断つのに相当の決断力を要するだろう、齢28のときだった。

かくて、夢を仮託された女児は、心ならずも頓挫した女が描く、見た眼には、馥郁(ふくいく)たる香りが立ち込める物語のイメージラインに沿って、特化された人生の軌道が定められていく。

母となった女が、今や、そこだけは譲れない者の如く、貪欲に追い求める欲望の稜線に我が子を同化・吸収する行程を通して、決定的に頓挫した己が夢を心地良く再生させてくれるイメージラインを強化させていく。

その女児もまた、バレエダンサーとしての道を歩んでいくのだ。

それ以外の選択肢は捨てられてしまっているからである。

その辺りをテーマにした物語の定番的パターンは、往々にして、「苦労の果ての感動譚」という予定調和のヒューマンドラマになりやすいが、この危うさに充ちた映画は、その類のカテゴリーに収斂し切れない、一見、ハリウッドお得意の「驚かしの技巧」の連射によって、観る者に恐怖感を愉悦してもらう、サービス満点のゴシックホラーとも思しき展開を繋いでいくのである。
 
なぜなら、この危うさに充ちた映画は、その女児が既に思春期を物理的、且つ形式的に超え、今や、結婚適齢期とも言うべき年齢に達したヒロインの、一人称の心象世界の見えない冥闇(めいあん)を表現する内容になっているが故に、観る者の視覚に刺激的なカットの連射を捕捉させる、殆ど時間の隙を作らないスピーディーな神経戦を挑んでいくようなのだ。

映像が、このような展開を繋ぐに至ったのは、青春期に入ってもなお、自傷行為を止められないヒロインの心象風景が、白鳥と黒鳥を一人で踊り分ける、チャイコフスキー有名なバレエ音楽白鳥の湖」のプリマドンナの座を射止める技巧を有しながらも、王子を誘惑する悪魔の化身・黒鳥が放つ官能的表現力を持ち得ないばかりに、振付師のトマから、「全身官能的表現者」に化け切るという困難なテーマを要求されたことで、その要求を内化・具現する内的葛藤のプロセスが、自我分裂の危機にまで及ぶ凝縮した時間を露わにしていったからである。

然るに、青春期に入ってもなお、自傷行為を止められないヒロインにとって、自分の果たせぬ夢を娘に仮託した女=母にインスパイアされた道徳観の強制力は、既に、娘の成長を自己基準で測定し、その自己基準に即した物語を逸脱することが許されないというような、それ以外の選択肢を拾えない、狭隘な自我形成のボトルネックを顕在化させてしまっていた。

それはまさに、マインドコントロールと呼ぶ外にない養育環境の中で、自立の芽が摘み取られた挙句、「自主性の獲得」という発達課題がクリアされず、その内的状況がいつまでも先延ばしされたばかりか、〈性〉に集中的に表現される思春期以降の、甘美で蠱惑(こわく)的な情動世界の文脈が擯斥(ひんせき)され、娘の退行的自我の表層に、「欲望悪」という厄介な観念系の情報の束がラベリングされてしまったのである。

バレエダンサーだった件の女は、プリマドンナの座を射止める技巧を有した娘に、繰り返し、「愛している」と吐露するが、しかしそれは、自立心まで奪うことのない程度において、「過剰把握」に流れ込まない限り、愛情深く近接する「過保護」という概念の内に収斂される柔和な関係ではなかった。

子供の希望を限りなく許容することで、我が子に一定の満足感を保証しつつ、それが極端な我が儘に流れない程度において、無理のないコントロールを遂行し得る関係性を保持しているならば、適性サイズの「過保護」による近接感は、豊かな愛情を土台にした母子の基本的な信頼関係の構築に寄与するであろう。
 
然るに、物語で提示された母子関係の本質を端的に言えば、「過干渉」という名の「権力関係」であったと言っていい。

子供の自我を作るのは母親である。

母親がいなかったら、母親に代わる大人が代行する。

この関係構造は、いつの時代でも、どこの国でも相当程度の普遍性を持つであろう。

この母子の関係もまた、母親が娘の自我を作り上げた。

しかし、限度を超える「過干渉」によって形成された娘の自我は、明らかに顕在化された強制力の縛りの中で、いつしか自己不全感を常態化させていた。

自我の空洞を埋めるに足る情動系の氾濫を、合理的に処理し切れないまま、内側深くに押し込める以外に術がなかったのである。

これが、思春期以前の、この母子関係の本質的様態であったと言えるだろう。

母親に対して反駁することが許されない自我は自在性と柔軟性を欠き、絶えず、物理的に近接する母親の視線を意識し、その視線に合わせる自己像を作り出していく。

これを、私は「良い子戦略」と呼ぶ。

「偽りの前進」とも呼ばれているものだ。

常に、母からの評価に過敏になり、この過敏さにエネルギーが必要以上に注入されるから、「自主性の獲得」という発達課題が先延ばしされることで、本来の生き生きした子供の無邪気さが削り取られていってしまうのである。

同様に、周囲から孤立しやすいパーソナリティに陥りやすいのは、結局、孤独な親の自我の不全感に起因する代償行為として、我が子に「良い子戦略」を駆使させる振舞いを必然化してしまうのである。

言ってみれば、「過干渉」とは、絶対的権力を持つ親による、我が子に対する継続的で、強制的な人格支配の様態であると言える。

だから当然、この関係は権力関係になる。

権力を行使する母親の懐深くに捕捉された娘の自我は、その母親の視線を先読みし、そこで仮構された〈状況〉に同化していくのだ。
 
この母と娘の厄介な権力関係が、プリマドンナとしての幸運に娘が最近接したとき、徐々に、そして確実に揺動し、その歪んだ関係の振れ方はダッチロールの様相を呈していく。

既に青春期に踏み込んでいた娘にとって、母親の強制的な縛りを、一定程度相対化できる腕力を手に入れていたからである。

然るに、その関係構造は、このような表層的な変容を具現しつつも、既にインスパイアされた娘の人格像には、どのように振舞っても簡単に無化し得ない、「欲望=悪」という観念系の文脈が張り付いてしまっていたから厄介なのだ。

この母子関係によって構築された、蜘蛛の巣のような粘着質のある包括的なバリアを、娘の希求する思いと決定的に矛盾すると感受したとき、娘の心象世界は、それまで内側深くに押し込めてきた一切の負の感情を、自ら意志で突き抜けない限り、何とか手に入れつつある相応のアイデンティティの確保すらも削り取られてしまうという、彼女なりの危機意識を抱懐するに至る。

この危うさに充ちた映画は、しばしば、観る者に、「愛しているよ」という母の習慣的言辞を、母の生来的な優しさと勘違いしてしまうような、ロジカルエラー(論理的過誤)を惹起させやすいギミックを駆使しつつ、偏頗(へんぱ)な様態を見せる、そんな母子の関係力学が物語を支配し切っていたのである。

娘の名はニナ、母の名はエリカ。

今まさに、内深くに抑圧してきた情動が激発的に噴き上げてきたニナは、母エリカのくすんだ蜘蛛の巣を解きほぐし、そこから全人格的に脱却しつつあったのである。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ブラック・スワン('10) ダーレン・アロノフスキー   <最高芸術の完成形が自死を予約させるアクチュアル・リアリティの凄み>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/09/10.html