父、帰る('03)  アンドレイ・スビャギンツェフ  <母性から解き放たれて>

イメージ 1序  謎解きの快楽にも似た知的ゲームの内的世界で



シンプルな作品ほど、しばしば難解である。

娯楽作品ならともかく、その内容が厳しく含みの多い作品であれば、当然そこに何某かの形而上学的な問題提起が隠されていると見るのが自然である。観る者はそこに隠されている何かを読みとろうとして、しばしば謎解きの快楽にも似た知的ゲームの内的世界で、「現象としての精神」を疲弊させたりもするだろう。

これは、「考えさせられる映画」と付き合ったときの宿命であり、礼儀でもあるかも知れない。映像それ自身から伝わってくる緊張と、その奥にあるものに到達したいという緊張が、否が応でも内側に高い集中力の維持を強いてくるのだ。

それをゲームとして愉しめるかどうか、そういう微妙なスタンスで付き合う映画もあるということだ。

この「父、帰る」という衝撃的な作品は、そんな映画の一つだった。



1  最も屈辱的な一日が閉じていって



―― 7日間で語られる映画の、その印象深いストーリーラインを追っていこう。

【日曜日】


5人の少年がいる。

眼の前には、広大な海と思しき水辺が広がっている。飛び込み台には、4人の少年が水着姿で下を見ている。既に一人のリーダー格と思しき少年が水の中に飛び込んでいて、下から檄を飛ばしている。

「お前らも飛び込め!梯子を使う奴は、弱虫のクズだ」

飛び込み台では、少年たちが互いに譲り合っている。なかなか飛び込もうとしないのだ。

「次はお前」
「何で?」
「怖いのか?」
「行け」
「怖いな」
「根性を出せ」

そう言われて、一人が飛び込んだ。そしてもう一人が飛び込む。残った二人は、後に続かない。続けないのだ。傍らの小さな体の少年が、すっかり声変わりした少年に弱音を漏らした。

「やっぱ、止めよう」
「バカ言え、笑われたいか」
「だけど・・・」
「黙れ。俺の後で飛べよ」

そう言うや否や、大きな少年は、先に真下の水面に飛び込んだ。

「チビ!飛び込め!」

高台に一人残された少年は、もう岸に上がった少年に檄を入れられた。しかし少年は飛び込めない。高台の鉄棒を握り締めて、うずくまってしまったのだ。

「おい!何をやってんだ!ダメなら降りて来い。いつまでも、待たねえぞ!」

リーダー格の少年の檄の後、兄と思しきが少年が口を挟んだ。

「弟も飛び込む。心の準備中だ」

そう言った後、高台に向って叫んだ。

「ワーニャ、早く飛び込め!何してる・・・早くどっちかに決めろ!勝手にしろ・・・」
 
結局、高台から飛び込むことができなかった弟を見捨てて、兄を含む少年たちはその場を離れて行った。

少年を救い出したのは、少年の母だった。既に日が暮れかけていた。

「飛び込まないと、帰れない」と少年。
「なぜ?」と母。
「降りたら・・・梯子使ったら、弱虫と呼ばれる。クズって・・・」
「分りっこないわ。平気よ」
「ママには知られる。僕が飛び込まずに、梯子で降りたと・・・」
「誰にも言わないわよ。この次飛べばいいわ」
「本当?一人ですごく怖かったんだ。死んじゃいそうで・・・」
「バカね。何言ってるの。ママがいるでしょ」
 
こうして一人の少年にとって、最も屈辱的な一日が閉じていったのである。



2  全てはここから始まった



【月曜日】


高所恐怖症のためグズと馬鹿にされる少年イワンと、弟を庇いたくても、仲間の手前イワンを排除するその兄アンドレイ。

それが、前日に起こった出来事が内包する繊細な事情だった。男の子の兄弟とはそんなものである。

この日はまだ、昨日の事情を兄弟は引き摺っていた。兄の仲間に入ろうとするイワンに、リーダー格の少年は冷たく反応する。

「クズとは口きかねえ」
「何だよ。誰がクズだ」とイワン。
「お前さ。弱虫のクズ。違うってのか?アンドレイ、どうだ?」

その少年は、イワンの兄に評価を委ねた。

「クズだ」とアンドレイ。

その表情には、本音を隠した少年の見栄が潜んでいる。

「ほらな」
「この野郎!」

そう叫んで、イワンは兄に殴りかかった。兄弟喧嘩が始まったのである。その喧嘩は、明らかにピア・プレッシャーに捕捉された自我の、思春期心理による身体バトルであると言っていい何かだった。

弟は走っている。

兄が先に走って、弟がそれを追う。階段を駆け下って、町の中を走り抜けていく。やがて弟は兄を追い抜いて、その疾走を加速させた。

もうそこに喧嘩は成立しない。誰も見ていないからだ。

二人はこのとき、単に帰宅を競う疾走をみせていたのである。

陽光眩しい寂れた街路を走り抜けて、二人が着いた自宅には、意外な人物が待っていた。

「静かにして。パパが寝てるわ」

母のこの一言に、兄弟は絶句した。
「入りなさい」
 
母の言葉に促されて、兄弟はまるで他人の家のような家屋の中に入り、そっと父が寝ている部屋の扉を明けた。そのベッドに、十二年間消息を断っていた父が、まるでキリストを思わせるような格好で眠りに就いていたのである。

母はそれ以上何も言わない。

祖母は何かを瞑想するようにして、椅子に座っている。

兄弟は勿論、父の顔を知らない。父を確認するために、彼らがもっと幼かった頃の写真を手に取った。

「パパだ。間違いない」

そこに映っている父親が今ここにいることを、兄弟は得心せざるを得なかったのだ。


その夜の家族の食事の風景は、風変わりなものだった。

殆ど語らない父親が一人一人にパンを与え、ワインを注ぐ。それはまさに、宗教画に描かれるような小さな晩餐の構図だった。

宗教的イメージの色濃いこの一幅の構図の直接性は、既に作品のテーマをなぞっているかのようである。

そこでは、まるで語ることがタブーであるかのように、誰も何も語らないのだ。
 
僅かにそこで語られたのは、明日父が二人の息子を連れて、車で2日間の旅行に出かけるということのみ。

屋外には、赤い車が駐車してあった。その車でのドライブが始まるらしいのである。

その夜、兄弟は突然起こった事態に戸惑いつつも、言葉を交わす。釣りのための道具の確認の後、兄は弟に父の印象を語った。

「凄い体だな。鍛えているのかな」
「かもね。どこから来たんだ?」
「“帰った”だ。嬉しくないのか?」
「嬉しいけど、ママはパイロットって・・・らしくない」
「どうして?」
「だってそうだろ。パイロットなら制服や帽子を・・・」
「そりゃ、休暇で帰るのに制服なんか着るか?」
「そうか。カメラは?」
「入れた。ノートも」
「何で?勉強する気?」
「日記だよ。代わりばんこに」
「そうだった。つけよう」

そこに母がやって来て、早く寝るように促した。母が扉を閉めようとしたとき、イワンは母に尋ねた。

「あの人、どこから?」
「帰ったのよ。さあ、早く寝て」

母のこの一言が、この日の終わりを告げる最後の言葉となった。

そしてこの日は、一週間で語られる映画の、その二日目の夜となった。全てはここから始まっていくのだ。


(人生論的映画評論/父、帰る('03)  アンドレイ・スビャギンツェフ  <母性から解き放たれて>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/11/03.html