愛を読むひと('08) スティーヴン・ダルドリー <「あなたなら、どうされます?」 ―― 残響音のエネルギーを執拗に消しにくくさせた、観る者への根源的な問い>

イメージ 11  「絶対経験」の圧倒的な把握力



「どんな経験でも、しないよりはした方が良い」と思われる経験を、私は「相対経験」と呼んでいる。

私たちが経験する多くの経験は、この「相対経験」である。

この「相対経験」は、心に幅を作るトレーニングでもある。

心の幅が、人生に構えを作る。

この構えがスキルになって、人の内側を少しずつ豊穣なものに仕上げるのだ。

しかし、人間には、このような「相対経験」に収斂されない経験が稀にある。

それは、「この経験が、私のその後の人生を決めた」と言えるような経験である。

その経験を、私は「絶対経験」と呼んでいる。

この「絶対経験」が、自己のその後の「懊悩の日々」を約束させるものだったら、その者は、「絶対経験」の圧倒的な把握力に翻弄されていく危うさを、自我のうちに巣食ってしまっているのだ。



2  「性愛」と地続きな「愛を読むひと」という「ひと夏のハネムーン」



本作の主人公であるマイケルの、幸薄き曲折的な人生を思うとき、彼の「絶対経験」の圧倒的な把握力について、複雑な心情に駆られて止まないのである。

決して、彼の優柔不断な人生を責めるつもりは毛頭ないし、その資格もない。

彼は、彼なりに信じた思いを身体化させてきたからだ。

そんな彼の「絶対経験」を、私は「ハンナ体験」と呼ぼう。

彼は、この「ハンナ体験」に呪縛され、その曲折的な人生を繋いで生きてきた。
 
「ハンナ体験」とは、「ハンナに対する純粋な愛情」と、それと共存する「ハンナに対する贖罪を求める感情」と考えている。

マイケルの、この「ハンナ体験」のスタートの内実は、なお片肺飛行であったが、ギムナジウム時代の15歳の夏だった。

それは、20歳以上も年の離れた女のフェロモンによって誘(いざな)われた挙句、「性愛」に搦(から)め捕られた純朴な初期青春期のこと。

ハンナもまた、その孤独感からか、年下の「坊や」との「性愛」に悦楽を求めていたが、しかし、彼女のモチーフの根柢に横臥(おうが)していたのは、「文学を読んで聞かせてもらう」感情であった。
 
「3か月間、寝てました・・・退屈でした。本も読めなかった」
 
ギムナジウムからの帰途、体調異変に襲われたマイケルを介助してくれた女性が、路面電車の車掌を職務にしていたハンナだった。

この言葉は、猩紅熱で病床に伏せていたマイケルが訪ねて来たときに、彼が洩らしたもの。

このとき、ハンナは、アイロンを持つ手を一瞬止めたが、観る者は、この所作が映像を貫流する重要な伏線を張ったものであることなど知る由もない。

忽ちのうちに意気投合し、「性愛」に悦楽を求めるように、激しく睦み合う二人。

「何を勉強しているの?言葉の勉強も?」

やがてハンナは、最も聞きたいことを口に出したのである。

マイケルがギリシャ語を勉強していることを知り、「読んで聞かせて?」と頼まれ、安請け合いする15歳の少年。

ホメロスの「オデュッセイア」から始まって、D・H・ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」、アントン・チェーホフの「犬を連れた奥さん」など、著名な作品が朗読されていく。

後二者ともに、不倫の話である。

しかし、二人の別離は呆気ない形でやってきた。

それは、路面電車の車掌であるハンナが、「事務職昇進」の話を受けた直後だった。

明らかに、動揺するハンナ。

ハンナが、その不安をマイケルにぶつけ、その日のうちに失踪したのである。

茫然自失のマイケル。

帰宅後、マイケルの父は、「帰って来ると思った」と一言。

この父の言葉は、既に、狭い町で二人の関係が噂になっていたことを暗示するものだ。

それが原因でハンナは失踪した、とマイケルは考えたのかも知れないが、未だ自我が確立していない彼には、40近い女の行動心理が把握し切れない。

だから、「裏切られた」という思いが、塒(とぐろ)を巻いていたのだろう。

彼らの「ひと夏のハネムーン」は、こうして終焉したのである。
それは、「性愛」と地続きな「愛を読むひと」という、「ひと夏のハネムーン」の終焉だった。



3  「ハンナ体験」の悪しき継続力が露わになって



「ひと夏のハネムーン」から数年後、ハンナの失踪の心理的背景に最近接する事態が出来した。

ロール教授に随伴するホロコースト裁判の法廷に、ハイデルベルグ大学の法科に入り、法律家志望のマイケルは見聞した。

その法廷に、ハンナが被告として出廷していたのである。

衝撃を受けるマイケル。

それでも彼は、必死に法廷に張り付いて、一言も洩らさず傍聴していた。

1943年にSS(親衛隊)入隊の際に、「シーメンスの工場での昇進」の話があったのに、その理由を聞かれて、「SSで看守の募集があったから」とのみ答えるハンナ。

法廷での、このハンナの説明に、なおマイケルは反応しない。

「人は言う。“社会を動かすのは道徳だ”と。それは違う。“法”だ。アウシュビッツで働いていたということだけでは罪にならない・・・問題は、“悪いこと”だったかではなく”合法であったか?”ということだ。それも現行の法ではなく、その時代の法だ」

これは、傍聴後のロール教授のレクチャー。

ドイツの若者たちに未来を託するロール教授の考えは、「デュープロセス」(一切の刑罰は、「その時代の法」に則って裁かれねばならないという刑事司法の原則)の理論であり、ニュルンベルク裁判や東京裁判に象徴されるように、「法の不遡及」の原則を否定する「事後法」によって、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」などを裁く法廷の存在それ自身の権威を疑うに足るというものであり、そこには作り手の強い思いも重なっているのだろう。

まもなく、ホロコースト裁判の法廷の空気が一変する事態が惹起した。
それはマイケルが、ハンナのSS入隊の本当の理由を知り得る事態でもあった。

ホロコースト裁判の法廷の裁判長は、母ともに収容所に入れられたイラーナ・マーサーの、ホロコーストの地獄を訴える著書を紹介し、そこで言及されている「選別プロセス」について問うのだ。

毎月、労働期間が終わった囚人60人を選別し、アウシュビッツに送り返した事実を裁判長は確認し、看守であったハンナにその関与を聞かれ、彼女は「イエス」と答えていく。

「では聞くが、選別の基準は?」と裁判長。
「看守が6人いるので、各自が10人を選ぶ」とハンナ。

ハンナは、この「選別プロセス」に全員が関与したことを認めるが、他の女性看守たちは否定するのだ。

この防衛的行動によって、法廷内に混乱が生まれた。

「分っていたはずだ。選ばれた者は殺されると」と裁判長。
「でも、新しい囚人が次から次へと送られてきて、古い囚人を送り出さなければ、収容し切れません」
「言い換えれば、こういうことだね。収容場所を作るために、“あなたとあなたは死ね”と」

裁判長が存分の厭味を込めて、こう言い切ったとき、ハンナは咄嗟に切り返した。
 
「あなたなら、どうされます?」

凄い言葉である。

恐らく、本作の基幹メッセージだ。

この根源的問いに、答えられない裁判長がそこにいた。

まもなく、法廷はイラーナ・マーサーの証言に入っていく。

「看守は囚人を選ぶだけ。でも、ハンナは違ってました。」

これは、毎晩、ハンナが若い娘を自分の部屋に呼んで、本を読ませていたことの証言である。

ハンナの「ロマン溢れる文学」への思いのルーツを探る情報が、ここで露わにされ、それを傍聴するマイケルは眼を見張った。


 
(人生論的映画評論/愛を読むひと('08) スティーヴン・ダルドリー <「あなたなら、どうされます?」 ―― 残響音のエネルギーを執拗に消しにくくさせた、観る者への根源的な問い>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/05/08.html