魚影の群れ(‘83) 相米慎二 <壮絶なる「全身プロフェッショナル」の俳優魂を炸裂させた完璧な結晶点>

イメージ 11  壮絶なる「全身プロフェッショナル」の俳優魂を炸裂させた完璧な結晶点



微塵の妥協を許さないプロフェッショナルな映画作家の手による、「全身プロフェッショナル」の映画の凄みを改めて感じさせてくれる一級の名画である。

 1か月のロケの中で、「演技指導は行わず、役者が内面から自然な感情を表わすまでじっくりと待つ」(NHK・BS「邦画を彩った女優たち」より)プロフェッショナルな映画作家にとって、「まずは、役者さんの芝居が固まるまで、初日から60回、70回のテストをする」(同上)徹底ぶりは、プロの役者魂の表現を引き出すための、それ以外にない演出の戦略だった。

 そこで引き出されたのは、「精神的に追い詰められて、最後はもう、本番終わったら海に突き落としてやる」(同上)とまで言わしめるほど、自分の夫の生命の安否を気遣って、内面的に震えつつも、必死に耐えるヒロインを演じ切った夏目雅子女優魂である。

その夏目雅子の芝居が固まるまで緊張感を保持し、何の指導も受けることなく、待たされ続けたのは、伝説的なマグロ漁師を演じた緒方拳。

 マグロ漁で有名な、下北半島・大間という、津軽海峡に面する漁師町に呼吸を繋ぐ人々の生活の律動感の、その漁民の日常的風景の視線のうちに俳優が溶融し切るまで、突き放すように待機する映画作家の苛酷な演出が、ここでもまた、切っ先鋭い刃となって炸裂する。

待たされ続ける俳優の緊張感が苛立ちを募らせ、それが噴き上がっていくぎりぎりの辺りで、クレーン移動を駆使しての、くどいほどのワンシーン・ワンカット長回しによるカメラが捕捉する。

だから、これは凄い映画になった。
 
「魚影の群れ」という驚嘆すべき一篇は、父娘の役を演じた緒方拳と夏目雅子との、迸(ほとばし)る俳優魂の化学反応の結晶であると言っていい。

この国にあって、「最高表現者」という「勲章」を付与するのに相応しい、緒方拳の表現の総体が完璧であるのは織り込み済みだが、その「最高表現者」の演技に屹立し、火花を散らせた夏目雅子の表現の総体もまた、観る者に、鮮烈な印象を鏤刻(るこく)させる訴求力の高さにおいて決定的であった。


下北・大間の方言を、殆ど完璧に内化したプロの俳優による徹底したリアリズムが、本作の生命線を成して、苛酷な北の海で生業(なりわい)を繋ぐ漁師と、それを見守る女の生きざまの悲喜交々(ひきこもごも)の物語を、ワンシーン・ワンカット長回しのカメラが、〈生〉と〈性〉の切れ目のない呼吸の生理的運動のうちに写し取っていく。

 本作のロケ地は、言うまでもなく、マグロの一本釣り漁で名高い、本州最北端の青森県大間の町。
 
今や、「大間マグロ」がブランド視されるようになって、つとに商品価値が上がったが、物語の舞台では、そんな世俗の臭気と切れて、一本釣りに命を懸ける男たちの生態がリアルに活写されていた。

数千メートルに及ぶ幹縄(みきなわ)に枝縄(えだなわ)を一定間隔で垂らし、枝縄の先端に疑似餌をつけて大規模な漁を展開する、大型延縄(はえなわ)漁船によるマグロ延縄漁と違って、一人乗りの小型漁船を駆使し、100キロ級以上のホンマグロを豪快に釣りあげる大間の一本釣り漁は、当然の如く、漁師の高度な技術と腕力・気力に依拠するから、長年の経験の差を無視できないのである。


更に、一本釣りで漁獲したマグロの品質を劣化させないため、迅速且つ、適宜に処理する技術が求められるので、どうしたって、ベテランの域に達した頑強な男の力量に依拠せざるを得ないのだ。


 大間の一本釣り漁は、夏の終わり頃、サンマやスルメイカを餌として、時速40キロの速度で回遊するマグロを、生餌や疑似餌を海に投入し、マグロのヒットをひたすら待ち、反応があったら手で引上げるが、「最後の勝負」は、マグロの急所に手鉤(てかぎ)を繰り返し打ち込んで止めにする。


 映像は、この最後の勝負を、2回の目立たないカットが入っただけで、殆ど完璧に近い長回しによってリアルに活写する。
 
緒方拳演じる男の「最後の勝負」を、この長回しによって捕捉する撮影・演出技術は、殆ど奇跡的快挙と呼ぶ他にない。


 大間の一本釣り漁に命を懸ける男たちの生態が、この大胆な長回しよって、ドキュメンタリーと見紛うばかりに再現される迫力は、デジタル化した時代を越えて、映画史の中で語り継がれていくだろう、壮絶なる「全身プロフェッショナル」の俳優魂を炸裂させた完璧な結晶点であった。

  
 脱帽と言う外にない。




 2  「板子一枚下は地獄」の世界の現実を、殆どワンカットで見せるマグロ漁の凄絶さ




恋人トキ子の父・房次郎に結婚を拒絶され、強烈な平手打ちを受けながらも、大間町と隣接するむつ市内で経営する喫茶店を一時(いっとき)閉鎖して、トキ子の住む大間のアパートに引越して来た若者の名は俊一。
 
幼児期に母を失った娘・トキ子を不幸にさせたくないという思いの強さが、リスクの大きい漁師の妻にさせることを拒む房次郎を、いっそう頑なにするのだが、その心理の根柢に張り付くものは、自分の世話を焼くトキ子を失う事態への恐怖感だった。

かつて妻に失踪され、またしても娘を失うかも知れないという、孤独への恐怖感。

これが、海の男の心を漂流している。

それでも、トキ子との結婚を諦め切れない俊一は、「あの人のような漁師になりたい」という気持ちを捨てることなく、毎朝、房次郎の船・第三登喜丸の前で待ち続けるが、一顧だにされず、無視される日々を経て、遂に思いが通じるに至った。

乗船の許可を得た俊一は、緊張感の中で、束の間、「一本釣りの名手」と時間を共有する。

しかし俊一は、船酔いに甚振(いたぶ)られる惨めさを晒すばかりだった。

当然である。

「あの人のような漁師になりたい」という気持ちがどれほど強くとも、幼い頃からダッチロールする海上経験に馴れていなければ、一人乗りの小型漁船で船酔いし、嘔吐するのは必至であるだろう。

そんな俊一が、幾らかでも小型漁船に馴れてきたとき、由々しき事故は起こった。

第三登喜丸が、黒潮にのって北上するマグロの群れに遭遇したときのことである。

餌を投擲する房次郎の手馴れた動作に全く無駄がなく、ここから開かれる一本釣りの豪快な漁法が展開していく。

 ところが、房次郎の手馴れた一連の動作には、絶えず障害物があった。

狭い漁船内で、自らが選択する行動を持て余すだけで、ウロウロする俊一の存在である。

一本釣りの漁法を学ぼうとする俊一の物理的存在が、真剣勝負の房次郎の行為を遮り、その度に、「おーら、どけてろ!」などと怒鳴られる始末だった。

 事故は、そのとき起こった。

餌に喰い付いてきたマグロが房次郎のテグスを引っ張り、それを引っ張り返すプロの漁師との死闘が演じられる中で、あろうことか、テグスが俊一の頭部に巻きついてしまったのだ。

 見る見るうちに出血し、その血飛沫(ちしぶき)が房次郎の顔面を鮮血の赤に染め上げる。

 俊一の頭部に巻きついたテグスを外そうとするが儘(まま)ならず、却って引っ張り返される状況下で、叫びを上げる俊一の頭部からテグスをを外した房次郎は、額にタオルを巻いて止血する。

 「すいません。すいません。マグロは、マグロは・・・」

応急手当ての処置を施される俊一は、謝罪しながらもマグロが気になっている。

「あれはいい。あっちの方が強かった」

 そう言って、マグロを諦めた房次郎は、応急手当ての処置を済ませるや、大間漁協に救急車の手配を漁業無線で求めた。

 そのときだった。

 テグスが激しく反応したのである。
 
 房次郎のテグスに、マグロがなお抵抗しているのだ。

 房次郎は、漁協への要請を忘れて、再び、マグロとの死闘を継続する。

 「おっちゃん、何とかしてけれ」

 出血多量で苦痛に歪む俊一の、助けを求める言葉である。

 マグロの急所に手鉤(てかぎ)を繰り返し打ち込んで止めにする、壮絶なマグロとの死闘に勝利した房次郎が、「正気」に戻ったとき、既に、声もなく船内で倒れている俊一を視認し、慌てて漁協に連絡するが、殆ど手遅れの状態だった。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/魚影の群れ(‘83) 相米慎二  <壮絶なる「全身プロフェッショナル」の俳優魂を炸裂させた完璧な結晶点> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/09/83.html