人は犯した罪をどこまで贖うことができるのか ―― 映画「つぐない」が問う根源的提示

イメージ 1イギリスのジョー・ライト監督の映画「つぐない」(207年製作)を観たとき、「贖罪のプロセス」の重さ=「赦し」の重さというテーマについて深く考えざるを得なかった。

以下、拙稿・「人生論的映画評論・つぐない」をベースに、このテーマについて考えてみたい。

―― 「つぐない」は、姉セシーリアと使用人ロビーの恋愛関係への嫉妬から、13歳の少女ブライオニーのついた嘘が不幸な事態を招来したことへのトラウマが、生涯にわたる少女の贖罪を内的に必然化する行程を、サスペンスの筆致で描き切った秀作だった。

ブライオニーが思春期前期に犯した過ちを、その後、軌道修正すべく、努力する機会を自ら構築し得ないまま、その罪悪感のみを自我のうちに隠し込む人生を繋いできたのは、恐怖に竦んで姉に会いに行くことすらできなかったからである。

 それは、少なくとも、少女なりに自分が犯した罪の重圧感を感受していたことを意味する。

 然るに、ブライオニーが贖罪を遂行するには時代状況の変化が激しく、その変化の波に翻弄された「被害者」の状況は暗転するばかりで、遂に「告白」という、贖罪の重要なプロセスの機会を逃してしまった。

 しかし、第二次大戦の厳しい状況下で、まるで示し合わせたかのように、愛し合っていた二人が戦死してしまったからである。

 贖罪の一つとして、姉のようにナースになったブライオニーの人生の選択は、灰燼と化したのである。
 
直接的な贖罪の機会を奪われた、「加害者」のブライオニーだけが生き残されてしまったこと ―― この事実の重みが、いよいよ一人の女性の自我に負荷を累加させていく。

思うに、「贖罪のプロセス」とは、心理学的に捉えるならば、「罪悪感の認知」「告白」「謝罪」「善行」「赦し」という、一連の形式的行程をトレースするだろうが、その行程の遂行は容易ではない。

 「贖罪のプロセス」には、当然の如く、「罪悪感の認知」が不可避となる。

 この心の扉を抉(こ)じ開けることで、罪悪感を自己にもたらす特定他者に対する「告白」が、意を決して開かれていく。

 但し、この「告白」が、本質的に自己が負った心理的重圧を軽減する一方、罪悪感を自己にもたらす特定他者の感情に、「赦しの行程」という葛藤・混沌状態に陥れる時間を作り出す危うさを持つことで、罪悪感の対象人格の「内的秩序」の破壊性を随伴する自覚をも視野に入れねばならない。

 そこにこそ、「贖罪のプロセス」の重さがある。

 「赦し」を求める行為が、罪悪感の対象人格に及ぼした損害を償うに足る、その行為の艱難(かんなん)さを随伴してしまうからだ。
 
胃潰瘍という持病で神経まで摩耗させていった夏目漱石が、人間のエゴイズムの問題を極限まで追い詰めた心境下の作品として著名な、「後期三部作」の二作目 に当たる「行人」では、主人公は「死ぬか,気が違うか,それでなければ宗教に入るか」という袋小路に陥るが、三作目の「こゝろ」では、自分のエゴで親友を自殺させたことの罪悪感に苛まれた「先生」は、それ以外にない贖罪の手立てとして自殺するに至った。

 この死は、この国の近代知識人の苦悩を象徴すると言えるが、強力な一神教に依拠しない日本人にとって、ある意味で合理的な贖罪観を持つキリスト教文化圏の人々のように、「告白」「神への帰依」という「贖罪のプロセス」によって一定の軟着点を持ち得ない分、却って厄介なのだ。

 キリスト教圏では、イエスが人類の罪を負ってくれたことで、人々が心から悔い改めさえすれば, 罪を拭うことが可能なのである。

 だから、若き日の過誤を、その後の人生で幾らでも軌道修正できるのだ。

 この辺りが理解し得ないと、本作のラストシークエンスの決定力を見間違えるだろう。

 姉セシーリアとロビーとの恋愛が成就することで、一定の「贖罪のプロセス」を果たすという架空の小説を書き上げたのは、今や老作家となり、重篤認知症に冒されているブライオニーである。

 ここで映像は、ブライオニーのインタビューを提示していく。

 「私の最後の小説です」とブライオニー。
 「筆を折るんですか?」とインタビュアー。
「死ぬんです。主治医によれば、脳血管認知症だそうです。だんだん脳が壊れていく。作家にとっては致命傷です。だから完成させました。書かねばならない本を。私の遺作として。おかしなことに、私の処女作とも言える作品です」

 「死ぬんです」と淡々と語るブライオニーには、覚悟を括る者の潔さが垣間見えた。

 「自伝的な小説ですね?」とインタビュアー。

 この問いにも、限りなく誠実に答えるブライオニー。
「ええ、私の名前を含めて全て実名です。真実を語ろうと、ずっと前から決めていました・・・実際に見てないことは、当事者に聞きました。刑務所の状況もダンケルクの撤退も何もかも。でも、事実はあまりに非情で、今更、何のためになるかと思ったのです」
 「つまり、正直に語ることが?」

 更に、このインタビュアーの問いに対するブライオニーの長広舌の反応は、本作の根幹に関わる最も重要な言葉を記述するものだった。

 「正直に語ること、つまり真実がです。実は1940年6月、怖気づいた私は、姉に会いに行けませんでした。姉の家には行けず、告白のシーンは想像です。真実ではありません。私の創作です。と言うのは、ロビーはブレー砂丘で、敗血症で亡くなりました。撤退の最終日です。姉とも仲直りできませんでした。同じ年の10月15日、姉は空爆で亡くなりました。二人はとうとう一緒の時は過ごせませんでした。心からそれを望み、報われるべきだったのに。私がそれを妨げたのだと思います。でも読者は、そんな結末から、どんな希望や満足感を得られるでしょうか。だから本の中では、二人が失ったものを取り戻させたかったのです。これは弱さでも、言い逃れでもありません。私にできる最後のことです。二人に贈られたのは、幸せな日々です」 

これが、ブライオニーの贖罪の内実だった。

 ブライオニーは、「二人が失ったものを取り戻させたかった」という、真実と切れた「愛の成就の物語」の立ち上げによって、彼女なりの贖罪を遂行したのである。
然るに、観る者は、「読者は、そんな結末から、どんな希望や満足感を得られるでしょうか。だから本の中では、二人が失ったものを取り戻させたかったのです」というブライオニーの言葉に、狡猾な欺瞞性を感じるかも知れない。

 或いは、「これは弱さでも、言い逃れでもありません。私にできる最後のことです」という言葉に、開き直りの態度を見るかも知れない。

 それとも、彼女の小説が自分に都合の良いように書かれたものと断じるかも知れない。

 しかし、私たちはよくよく考えてみなければならないだろう。

 晩年のブライオニーが仮構した物語の中に、毒気に満ちたロビーの攻撃性の前で言葉を失い、18歳のブライオニーが謝罪する描写を挿入したのが、遂に贖罪を履行し得ないまま関係を閉じることになった、シビアな現実の理不尽さを溶解するために、せめて物語の中で贖罪を履行することによって、自我が抱える負性意識の重さを少しでも軽くしたかったという心理が働いたのは事実であろう。

 それ故、ラストシークエンスでのブライオニーのインタビューで語られたものの中には、彼女に都合の良い語りがあったとしても、それは意図的に加工した嘘話というより、そのように望んだ彼女の想いの結晶であり、同時に、そのように記憶された彼女の「真実の語り」であって、それが事実と食い違う内容を持っていることも有り得ることなのである。

それが人間なのだ。

 それよりも、ブライオニーのインタビューそれ自身が、彼女の「贖罪」であるという把握こそ重要であるだろう。
 
 
(新・心の風景  人は犯した罪をどこまで贖うことができるのか ―― 映画「つぐない」が問う根源的提示)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2013/10/blog-post_31.html