川の底からこんにちは('09) 石井裕也 <「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にした、「開き直りの達人」の物語>

イメージ 11  「開き直った者の奇跡譚」という物語の基本骨格



本作の物語の基本骨格は、「開き直った者の奇跡譚」である。

「開き直った者の奇跡譚」には、物語の劇的変容の風景を必至とするだろう。

独断的に言えば、物語の劇的変容の風景を映像化するには、コメディーというジャンルが最も相応しいと考えたに違いない。

奇麗事で塗りたくってきたこの国の映像文化から、一切の虚飾を剥いで、裸形の人間像を生のまま提示できるからであり、また、精緻な内面描写も、「展開のリアリズム」への配慮も蹴飛ばせるからである。

だから、スラップスティック・コメディと一線を画して、そこに過激とも思える会話や振舞い、加えて、作り手が勝負を賭けたに違いない過激な社歌の合唱シーンを挿入することで、限りなく虚飾を剥いだ、裸形の人間像を生のまま提示したかったのではなかったのか。

物語の劇的変容の風景を必至とする「開き直った者の奇跡譚」は、或る意味で「戦略的映像」ではなかったか。

その「戦略的映像」を、私なりに受容していくと、その問題意識は、「開き直り」の心理学が教える、「奇跡譚」のパワーの人間学的考察という文脈に落ち着くだろう。

従って、本稿のテーマは、「開き直り」の心理学が教える、「奇跡譚」のパワーの人間学的考察の内実ということになる。

結論から書いていく。

この「奇跡譚」のパワーの人間学的考察を要約すると、「ネガティブな自己像」を持つ者が、その自己像を囲繞する「ネガティブな状況」にすっかり搦(から)め捕られて、そのまま放置しておくと、自己像の主体である自我が壊されるかも知れないというギリギリの辺りで、その時点で選択し得る最も合理的な自己防衛戦略を駆使することである。

以下、物語に沿って考えてみよう。



2  「ネガティブな自己像」が「ネガティブな状況」に持っていかれたとき



本作のヒロインである佐和子は、自分は「中の下」であるという「ネガティブな自己像」で固めていた。

高度成長期の根拠の希薄な中流幻想とは異なって、「中の下」であるという、極めてリアルな把握自体、特段に問題ないが、佐和子の場合、そこに自虐的とも思える諦念が張り付いてしまっていたのである。

具体的に言えば、転々して、5つ目の職場の派遣社員であると同時に、故郷から駆け落ちした18歳以来、既に4人の男に捨てられて、5人目の現在は、女房に逃げられた、セーター編みを趣味とする、子持ちの女々しい男を彼氏にしているという「妥協の産物」。

このような経験則の中で固められた自己像は、彼女にとって、不毛な上昇志向を寸止めにする、一種の有効な自己防衛戦略であったと言っていい。

ところが、有効な自己防衛網を巡らしたヒロインが、彼女の叔父(父の弟)によって、半ば強制的に、「ネガティブな状況」に持っていかれてしまったのだ。

一度は捨てた故郷で、シジミ工場を経営する父の入院という由々しき現実が、彼女をして、女性中心の工場の従業員たちからモテモテの、父の不在のシジミ工場の再建のために帰郷せざるを得なくなり、有無を言わさず、その状況に捕捉されてしまったのである。

「尊敬すべき父親を捨てて、東京に駆け落ちした性悪女」
このラベリングが、帰郷した佐和子を包囲し、性悪女を冷眼視する視線が職場の空気を、一層、険悪なものにしていくのだ。



佐和子にとって、ある種、自己防衛戦略的な「ネガティブな自己像」を繋いできただけの青春の軽量感が、「ネガティブな状況」に捕捉されることで、否が応でも、彼女の内側に「二重課題」の負荷を受けるに至ったのである。


「二重課題」とは、単に、彼女を捕捉した「ネガティブな状況」が分娩する心理的不安感に留まらず、彼女の自我のうちに不必要な観念が形成されたことで、これが厄介な克服課題と化した現象を言う。

不必要な観念とは、「工場を再生させなければならない」という、言わば、断崖を背にした者の過剰な使命感のみならず、同時に、ほぼ同質の重量感を乗せて、「この仕事は失敗するだろう」という相反する観念のことで、これらが彼女の自我のうちに共存してしまったのだ。

後者の場合は、明らかに、自己防衛戦略を駆使して仮構した彼女の「ネガティブな自己像」が、殆ど問題なく推移してきた、これまでの、実質「損得ゼロ」に近い、ダメージ・コントロールの固有のプロセスの中に、リアルな絶対課題が侵入してきてしまったことを意味する。

彼女を侵蝕するこの心理圧は、以下のシーンで、その苛立ちが読み取れるだろう。

「やんなきゃ、しょうがないでしょ。自分で出したものなんだしさ。そもそも、ウチはボットン便所なんだし、あたしが撒くよ。母さんが死んだ6歳のときから、これやってんの、あたし。いいからやってよ。エコライフがしたいんでしょ」

これは、会社を辞め、子連れで随伴して来た、恋人である健一にぶつけた佐和子の苛立ち。

因みに、「あたしが撒くよ」と言って、「自分で出したもの」とは、佐和子自身の糞尿のこと。

「結婚、どうするの?」と健一。
「そういうこと、聞ける立場なの?ちょっとは私の立場、考えてくれない。もう、ここまできたら、やっていくしないんだからね」
「ごめん」
「ごめんじゃないよ。工場だって危ないんだから。貯金だってないし・・・」
ざっと、こんなリアルな会話だが、その直後、一転して、佐和子の駆け落ちの件で逆襲する健一。

「自分で罪悪感とか、負い目とかないの?」
「あるよ。ある。ある。バカだなって思うし、自分、ダメだなって色々考えるし、だから、あんたみたいなバツイチと付き合ってるんでしょ。あんた、ダメな男。だって、あたしだって、大した女じゃないからね。悪いけど。だから、この先、あんたとやっていくって、あたし決めたの」
「佐和ちゃん、それ、開き直り過ぎじゃない?」

如何にも、コメディーラインの展開だった。
 
 
 
(人生論的映画評論/川の底からこんにちは('09) 石井裕也 <「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にした、「開き直りの達人」の物語> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/07/09.html