パーマネント野ばら(‘10) 吉田大八 <ブラックコメディの暴れようが、ヒューマンドラマに一気に回収されていく秀作>

イメージ 11  ブラックコメディの暴れようが、ヒューマンドラマに一気に回収されていく秀作



山下敦弘監督と共に、吉田大八監督は、私にとって、邦画界で最も愛着の深い映画監督である。

その殆ど全ての作品が好きな山下監督は別として、吉田監督はその明晰な頭脳で、巧みな構成力を構築する抜きん出た才能が印象づけられて、私にとって次回作が最も楽しみな監督であると言っていい。

作品の肝となるクライマックスを作り出し、そこに、物語の基幹的な構成要素を収斂させていく手腕の凄さに驚かされる。

桐島、部活やめるってよ」(2012年製作)の映画的成功は、その典型的な作品だった。

そこだけは、解放系の限定スポットとして、天に向かって開かれている屋上に物語の主要な登場人物たちを集合させ、そこで各自の情動が衝突し、炸裂する青春を描き切った構成力の見事さに震えが走ったほどである。

不必要なまでに、交わらないことによって守られる若者たちの自我によって、巧みに棲み分けされた「知恵」を駆使し、「スクールカースト」と揶揄される部活のヒエラルキーの中で、自分の居場所を確保しながら、悩みつつも、一生懸命、「現在」に呼吸を繋いでいる彼らの姿に率直に感動した作品 ―― それが、「桐島、部活やめるってよ」だった。

本作もまた、作品の肝となるクライマックスに向かって、物語の基幹的な構成要素を収斂させていて、蓋(けだ)し圧巻だった。

緻密に練り上げた構成によって、決定的に反転していく映像の風景の訴求力は絶大であり、ラストシークエンスのうちに悉(ことごと)く伏線を回収していく見事さは、吉田監督の蓄積された技量の一端を検証するものだろう。

―― 以下、「パーマネント野ばら」と題する、一見、蠱惑(こわく)的な映画の梗概を簡便にまとめてみる。

高知の片田舎の海辺の町。

その一角に、港町で唯一の美容室がある。

その名は、「パーマネント野ばら」。
 
離婚して帰郷したなおこが、一人娘のももを随伴し、母が経営する美容室を手伝っているが、そこに通う常連の女たちは、店を社交のスポットにして、下ネタ満載の「パンチパーマ」のおばちゃんトークが炸裂する。

「あのチンコは、ほんま良いチンコやったね」
「どのチンコ?」
「誰やったろう。年のせいか、どの顔がどのチンコやったか、よう思い出せん」
「キミちゃん、ボケるには早いで」
「まだまだ、元気やろ、あんた」と他のおばさん。
「やったもん勝ちや。食える男は、食う」

こんな逞しい女たちがいるからこそ、この国が壊れそうで壊れないのだと、つくづく思う。

ともあれ、「食える男」の一人のような、なおこの義父は、他の女の家に入り浸っているが、母には離婚する気が更々ない。

そのなおこには、幼少時からの友人が、二人いる。

フィリピンパブを経営しているみっちゃんと、男運の悪いともちゃんである。

二人とも、この土地の風土が生んだようなダメ男たちに馴致しているから、他の女たちと同様に、相当にタフな気性を身につけている。

それでも、男を求め続けるから、しばしば厄介な事態を招来する。

フィリピンパブを経営しているみっちゃんは、浮気夫に悋気し、相手の女共々、車で轢き殺そうとする事件を起こし、夫婦揃って病院行き。
 
ところが、退院したみっちゃんは、浮気夫を捨てられず、金の無心をするダメ男の甘えを許容するので、彼女の「男断ち」は、いつまで経っても実現困難なのだ。

一方、男運の悪いともちゃんが、漸く手に入れた「幸福夫婦」の夢は、敢えなく頓挫する。

ギャンブル三昧の挙句、行方不明となった夫の身を案じる始末。

そして遂に、行路病者になり果てた末の、夫の死を知るに至る。

「失敗は失敗のもと」という卓見で有名な岸田秀の言葉を援用すれば、ともちゃんは「失敗のリピーター」と言えそうだ。

失敗をするには失敗をするだけの理由があり、それをきちんと分析し、反省し、複合学習しなければ、かなりの確率で人は同じことを繰り返してしまうからである。

そんな中にあって、出戻りのヒロイン・なおこだけは「純愛」を繋いでいた。
 
子連れ再婚になるだろう相手は、地元の高校教師カシマ。

他のダメ男たちと一線を画すカシマの人間性は、人も羨むほどの抱擁力に溢れているが、なぜか、彼女は、自らの「純愛」を親友たちに秘匿する。

しかし、二人で温泉に出かけた日、他の女たちのように、感情を表出しないなおこに異変が出来することで、彼女の内深く張り付く心的外傷の負荷が、一気に炸裂していく。


 それは、ブラックコメディの暴れようが、ヒューマンドラマに一気に回収されていくシグナルだった。

 

2  フラッシュバックの発現によって開かれた、「対象喪失」の悲嘆の激甚さ



 ここから、物語を一気に進めて、作品のクライマックスに入っていく。
 
二人で温泉に出かけた日のこと。

カシマと待ち合わせしたなおこが、窓から見える海を見ながら、温泉宿の一室で男を待っている。

すると、男の乗る赤い乗用車が走行して来るのが、なおこの視界に入った。

嬉々として、駆け走っていくなおこ。

エレベーターが開いて、降りて来たカシマを、背後から驚かすなおこ。

部屋に入るや、カシマはなおこの体に帯を巻き、彼女を回して触れ合い、じゃれ合ううちに、情感が合わさって、二人は睦み合う。

なおこの至福の時間が極まった瞬間だった。

夜になった。

いつの間にか、なおこは眠りに就く。

覚醒したなおこの視界に、カシマが収まらない。

ビールの栓も抜かれていない。

旅館中を探すが、どこにもいない。

駐車場からも、カシマの乗用車が消えていた。

焦燥感に駆られるなおこ。

温泉宿の女将や仲居に聞いても分らないのだ。

苛立つように、帰宅するなおこの表情から漏れ出る脱力感。

そのときだった。

既に認知症に罹患している、みっちゃんの父による停電事件が惹起する。

あろうことか、チェーンソーで電柱を切り倒すのだ。

いつものことだが、この日もまた、辺り一面がが停電し、小さな街全体が閃光のように輝く絵柄が提示されたが、この日ばかりは様子が異なっていた。

この閃光は、そこから一気に開かれる、なおこのフラッシュバックを象徴したものであったからだ。

そのなおこは、キッチンの椅子に座り、テーブルに伏せたまま、いつしか眠りに就いていた。

その直後の映像は、電話ボックスでの「非在なる相手」との会話。

「どうして、いなくなったの?ううん、怒ってないよ。びっくりした。うん、いいよ、また、今度どっかに行こう」

ここで「間」ができる。

電話ボックスから嗚咽が漏れ、なおこは受話器を持ったまま、崩れるようにしゃがみ込んでしまう。

最後は激しい嗚咽となっていた。
 
「うち、もうあんたのこと、よう分らん。いつも黙って話、聞いてくれるやろ。傍におってくれて、優しゅうしてくれるやろ。けんど、もう、よう分らんき。うちのこと、好きでおってくれる?うちと会うてない時、うちのこと、ちょっとでも考えてくれゆ?会いたいね、どうしているのやろかって思ってくれゆ?うちは、いつもそうやき。いつもそう。なんでうち、こんなに寂しいが?なんで、寂しゅうて、寂しゅうて、たまらんが?なんで?」

恐らく、「入眠時幻覚」の中で、最も心地悪き妄想に捕捉されたなおこは、今や、脆弱でナイーブな自我のうちに、抱え切れなくなった強烈な心的外傷(トラウマ)の記憶が、一気に炸裂したのだろう。

 
 
(人生論的映画評論・続/パーマネント野ばら(‘10) 吉田大八  <ブラックコメディの暴れようが、ヒューマンドラマに一気に回収されていく秀作> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/02/10.html