まほろ駅前多田便利軒(‘11) 大森立嗣 <実存的欠損感覚を補填する心的旅程の艱難さ>

イメージ 11  実存的欠損感覚を持つ二人の男



 実存的欠損感覚を持つ二人の男がいる。

 一方の男は、不確実性の高い、見えにくい未来に向かうことで欠損の補填をしようと、辛うじて身過ぎ世過ぎを繋いでいる。

しかし、男の心奥に潜むトラウマが、いつもどこかで、その補填の営為を過剰にしてしまうのだ。

自我の再適応メカニズムとしての「防衛機制」を過剰にしてしまうからである。

もう一方の男は、過去に搦(から)め捕られ過ぎていて、不確実性の高い、見えにくい未来に向かえない。

男の心奥に潜むトラウマが、男の自我をすっかり食(は)んでしまっているから、未来に向かう熱量を簡単に自給し得ず、〈生〉と〈死〉の見えない危ういラインの攻防の只中で、生産性の削られた時間の海を漂流するばかりだった。

従って、男には、実存的欠損感覚を補填しようという営為が見られないが故に、辛うじて、身過ぎ世過ぎを繋ぐ「相棒」との物理的共存の中にあっても、その心理的風景の乖離は決定的だった。

具体的に書いていく。

愛する妻に裏切られたばかりか、その妻との間に儲けたに違いないと信じようとする子供まで喪った男にとって、そこで負った忌まわしき経験は看過し難いトラウマと化して、男の人生を実存的に揺さぶっていく。

「夫婦愛」という物語が、単に、物理的共存の延長線上で招来する、〈性〉を脱色していく倦怠期という名の些か手強いイニシエーションによってではなく、最愛の妻に不倫された最悪の現実によって袈裟斬りにされたのだ。

この精神的リバウンドは、その後も長く続くであろう、件の男の人生の実存の基盤を危うくさせていく。

そんな男が、「便利屋」という不安定極まる職業を選択したのは、規律正しいサラリーマン生活によっては得られない「職業利得」があると信じたからだろう。

「あんたにとって、あのチワワは義務だったでしょ。でも、あのコロンビア人には違う。チワワは希望だよ。誰かに必要とされるということは、誰かの希望になるってことでしょ」

これは、客から預かったチワワが夜逃げの産物と知って、そのチワワを引き取ってくれる対象人格を探しているときに、「便利屋」の「相棒」から放たれた言葉。
 
同時にそれは、「便利屋」稼業の男と「運命の出会い」をする、二人の男が抱える実存的欠損感覚の本質を言い当てる物言いでもあった

「誰かの希望になる」ことで、「誰かに必要とされる」存在になっていく。

それこそ、最愛の妻に袈裟斬りにされた挙句に、「我が子の病死」という甚大な心的外傷を抱えて生きる男にとって、せめてもの贖罪への方略は、「誰かに必要とされる」存在になっていく以外になかったのだろう。

然るに、男の心奥に深々と澱む心的外傷を癒すのは容易ではない。

前述したように、「便利屋」稼業の男の心的外傷の重篤性から忖度(そんたく)すれば、決して消えることがない忌まわしき記憶を時間の海に流せないまま、知らずのうちに、いつもどこかで、その補填行為を過剰にしてしまうだろう。

そのとき、自我の再適応メカニズムとしての、男の「防衛機制」が過剰になってしてしまうのは、「誰かに必要とされる」存在になっていくという補填行為の反覆それ自身が、贖罪の実感濃度を高めていく心理的効果を分娩するからである。

「誰かに必要とされる」存在への潜在的希求に誘(いざな)われて、「便利屋」稼業に自己投入する心優しきナイーブな男が、呆気なく袈裟斬りにされていくこの国の、ごく普通の男女関係の様態が露わにされる物語の主人公の名は、多田啓介。

未来に向かう自給熱量を繋いでいくことによってしか、忌まわしき記憶を希釈化させたという幻想を持ち得ない悲哀を封印して、「今、このとき」の時間の海の適水温を測って必死に回遊する、三十代の働き盛りの男である。
 
そんな男が不安定な自営業を選択したのは、その心理的風景において必然的だったのだ。

それは、男の人生にとってトラウマの修復過程であると同時に、アイデンティティの再構築を賭ける人生への自己投入であったと言えるだろう。

その意味で、多田の視線は細々としているが、しかし、それ以外にあり得ないと思える未来像に辿り着くための、極めてポジティブな行程だったのである。



2  実存的欠損感覚を補填する心的旅程の艱難さ



実存的欠損感覚を深々と負っている、もう一方の男には、多田のような未来像を描けない。

幼児虐待のトラウマによって傷つけられた尊厳を修復するには、今や、「近くて遠い存在」にある、多田という、中学時代での小指切断事故以来の因縁を持つ、生真面目な男以外に辿り着くしかない辺りまで追い詰められていったのか。

幼児虐待のトラウマを延長させている、もう一方の男の名は行天春彦(ぎょうてんはるひこ)。

独特のフラ(何ともいえぬ可笑しさを持つ落語用語)の律動感に乗せて喋る三十男には、見かけの相貌性の内奥に潜む「狂気」の突沸(とっぷつ)が、多田との再会のシーンで捨てられた包丁から、憎悪の対象人格であった親への殺意のイメージラインを想像し得るものだった。(これは、多田に語った行天の元妻の吐露のシーンで露呈されていた)
 
行天の実存的欠損感覚のルーツの根深さは、この男の人生の再構築の可能性を困難にする印象を拭えなかったものの、多田との1年間近い「便利屋」稼業の物理的共存によって、心理的最近接を果たした後、二人の別離による物理的共存を解消する経緯を通過したことで、相互に「気になる他者性」の濃度を高めるに至り、このプロセスが、包丁を捨て切った男の「帰還」というラストカットに結ばれていったのである。

それは、幼児虐待のトラウマの克服という、行天春彦の実存的欠損感覚を埋める心象風景を必ずしも十全に検証しないが、少なくとも、実存的欠損感覚を埋めるに足る彼の旅程が、「気になる他者性」の濃度を決定的に高めた「相棒」との3度目の「出会い」の中で、過去に縛られ過ぎていた振れ具合の微調整を能弁に語るものだったと言えるだろう。

多田啓介と行天春彦。

この二人が内包する実存的欠損感覚の違いとは何だろうか。

それを私は、「疾走感」と「鈍走感」の相違というイメージで把握している。

多田啓介は、疾走することを捨てられない男である。

見えにくい未来に向かう「希望」を捨てていないからである。

希望を捨てている人間が、「相棒」救出のために疾走する訳がないのだ。

そんな多田の走りのイメージと切れて、行天春彦は、最後まで自分のペースを崩すことなく鈍走を繋ぐ男であった。

それは、自分のペースを崩すことを嫌う固有の性格に起因するというよりも、何か特定の目的のために、我が身を捨ててまで、疾走・激走することが叶わないというイメージの方に寧ろ近いだろう。

 
 
(人生論的映画評論・続/まほろ駅前多田便利軒(‘11) 大森立嗣  <実存的欠損感覚を補填する心的旅程の艱難さ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/11/11_23.html