新・心の風景  継続的に暴力を受けた者の恐怖の心理的リアリティ ―― 映画「ミザリー」に見る「闘争・逃走反応」への心理の致命的欠損

1  継続的に暴力を受けた者の圧倒的な恐怖感の欠落
 
 
 
ミザリー」というサイコもどきのホラー映画を観て、正直、辟易した。
 
重傷を負って馴れない車椅子を駆使する流行作家が、「恐るべき殺人鬼」によって、両足を巨大なハンマーで打ち砕かれ、身体機能が無能化されても、腕力のある「殺人鬼」に立ち向かい、殺したと思いきや、再び襲いかかってくる相手を最終的に破壊するという、ハリウッドホラーの定番のシーンが執拗に描かれていて、殆どうんざり気分だった。
 
大体、継続的に、且つ、致命的な暴力を受けている者が、その暴力によって巨大な敵を斃すことなどあり得ないだろう。
 
何より、継続的に暴力を受けた者の圧倒的な恐怖感の欠落。
 
これが全てだったと言っていい。
 
心理的リアリティを欠落させた映画からは、ただ単に、熱狂的なファンである小説家を監禁し、原稿の訂正を求める女を演じたキャシー・ベイツの「怖さ」というような感懐くらいしか残らないだろう。
 
その景色には、「闘争・逃走反応」に振れるに足る、極限的な不安・緊張・恐怖をきっちり描くサイコサスペンスの王道の切れ味とは無縁で、殺人鬼と闘うグロテスクな「ファイト」の気味の悪さだけが残像化されるだけだった。
 
「単なるホラー映画じゃないか」
 
そう割り切って、エンタメムービーとして受容し、理屈をこねるのは野暮という俗論で収斂させればいいのだろうが、ただ、こういう物言いを吐く者もまた、一人の熱心な「鑑賞者」であるいうことだ。
 
人間心理の歪みについての批評の余地を残すサイコサスペンスなら、もう少し、人間の心理の恐怖感がリアルに再現できたにも拘らず、残念ながら本作は、その辺りの冷厳なリアリティが欠けていたので、「驚かしの技巧」をフル稼働させ、キャシー・ベイツの抜きん出た演技力だけが光る、単なるハリウッドのサイコもどきのホラー映画と言う外になかった。
 
本作で描かれた類の事件が頻発する類の刑事事件ではないものの、「起こり得る厄介な危うさ」を内包することを考慮するとき、人間の情動や感情が複雑に絡み合って、変化していく振幅が丁寧に、且つ、視覚的に描かれていれば問題なかったが、それが殆ど補足的に切り取られていたという印象を拭えないので、詰まる所、キャシー・ベイツの「攻撃的狂気」を屠っていくジェームズ・カーンの「防衛的正義」が、ハリウッド流の「奇跡の逆転譚」を立ち上げる、勇ましき「悪者退治」に収斂される映画に終始してしまったのである。
 
アニー(キャシー・ベイツ)の異常性が激しい攻撃行動にまでに膨張していく渦中にあって、ポールの情動反応は、一気に戦闘モードに振れていく。
 
当初、「特定敵対者」としてのアニーには、付け入るに足る隙があったからである。
 
自分が相手に対して上手に対応していけば、クローズドサークル(外界との連絡が断たれた状況)からの脱出のチャンスがあると、動けないポールは考えていたのだろう。
 
この時点で、アニーは「特定敵対者」であっても、「狂人」というイメージより、単に、「熱狂的で異常なファン」でしかないと見做していたからである。
 
だから、彼女を籠絡する戦略を駆使していく。
 
その典型的な例が、アニーをディナーに誘い、その場で、密かに貯めておいた薬剤をワインに混入した一件である。
 
これは、あえなく頓挫するが、まもなくポールは、アニーが犯したと断定し得る連続殺人という、過去の忌まわしき情報を入手する。
 
全て、アニーの看護婦時代の話だった。
 
「思い出のアルバム」という、柔和なイメージを誘う冊子に収められた新聞のスクラップ。
 
そこに詰まったアニーの過去の闇。
 
一瞬にして変換してしまうアニーの由々しき情報に接して、ポールの心は凍結する。
 
それは、まるで自慢げに、過去の闇を平然とスクラップする狂気に最近接したときの恐怖であった。
 
「熱狂的で異常なファン」という認識が、「恐るべき殺人鬼」という認識に変換された凍りつく情報は、その「恐るべき殺人鬼」の獲物のトラップに、流行作家である自分が捕捉された現実の認知でもあった。
 
包丁を懐に忍ばせて、常に極限の戦闘モードに自己投入する男には、身体を自在に動かせないという決定的なハンデがある。
 
その決定的なハンデが、「恐るべき殺人鬼」によって無能化されるのだ。
 
馴れない車椅子を駆使してのポールの移動が、呆気なくアニーに気付かれ、巨大なハンマーで砕かれてしまうのである。
 
流行作家の失踪とアニーとの関連に目を付けた保安官が、誰も訪問することのないアニーの家を訪ねて来るが、救いを求めるポールの前で銃殺されてしまうに至る。
 
絶望的状況下で、「殺るか、殺られるか」という「戦争」が開かれ、車椅子から体当たりしてのポールの「奇跡の逆転譚」によって、「悪者退治」を自己完結させていく。
 
ただ、これだけの話だが、私には相当の不満が残った。
 
本稿では、この映画を、心理的リアリティを精緻に再現したイメージの中で考えてみたい。
 
 
 
 
 
(新・心の風景  継続的に暴力を受けた者の恐怖の心理的リアリティ ―― 映画「ミザリー」に見る「闘争・逃走反応」への心理の致命的欠損)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2014/07/blog-post.html