凶悪(‘13) 白石和彌 <「凶悪さ」という概念のアナーキーな氾濫への違和感>

イメージ 11  「正義」を盾にした夫の叫びを打ち砕く妻のリアリズム
 
 
 
「絶対正義」の名の下に、「私的制裁」に奔走する一人のジャーナリストと、その背後に隠れ込み、「絶対悪」を糾弾して止まない「映画鑑賞者」=「一般大衆」の裸形の懲罰意識を露わにすることで、人間の「悪徳性」を挑発的に炙り出し、その問題意識のうちに主題を鮮明にさせた一篇。
 
極めて挑発性の高い映画の破綻は特段に見られず、構成力にも瑕疵が目立つことがない。
 
所謂、鑑賞者の情動を必要以上に高める大仰なBGMも挿入することなく、「情緒過多」で、無駄な描写に溢れた綺麗事満載の「日本映画病」とも切れていて、取りたてて異議を唱える何ものもない。
 
但し、その根拠が理解できるにせよ、分りやすい説明描写で流していくという一点において、「日本映画病」とは言わずとも、映像本来の力のみで押し切れなかった印象を拭えなかったのも事実だが、決して完成度が低い作品ではなかった。
 
「主題提起力」が些か支配的な占有感を印象づけたが、「構成力」を破壊することがなく、「映像構築力」は無難に保持されていた。
 
その意味で、秀作と言っていい。
 
―― 以下、物語の梗概。
 
 月刊雑誌「明潮24」の編集部に、東京拘置所に収監中の死刑囚・須藤から手紙が届いたことから、一切が開かれていく。
 
編集部の藤井が須藤に面会して話を聞きに行き、そこで3件の殺人事件の余罪と、その事件の首謀者である、「先生」と呼ばれる男・木村の存在を知らされる。
 
「木村をこの手でぶち殺したい。どうせ死ぬなら、綺麗になって死にてえ」
 
頭を下げながら、拘置所の面会室で、藤井に語った須藤の言葉である。
 
ここで言う、3件の殺人事件とは、木村が殺した男を焼却炉で燃やした老人の事件、土地を転売して生き埋めにした老人の事件、借金を払えない電気店老人に保険金かけて、酒を飲ませて殺害した事件のこと。
 
死刑囚から余罪の告白を受けるという、信じ難き事実に疑心暗鬼の藤井が、自ら調査する過程の中で、3件の余罪の事件性に確信を抱いていく。
 
しかし、芸能ネタのスクープを追っている女性編集長は、藤井の取材要請を無碍にする。
 
「無理無理、3カ月も前の事件、終了してるでしょ。あの事件は、もうネタにならないの」
 
スクープ雑誌のビジネスで売っている月刊誌に、真実を追求し、報道すべきことを国民に伝えるジャーナリズムの精神を求めること自体が、充分にチャイルディッシュな発想なのだろう。
 
ここから、職場を放棄してまで、藤井の独断によるリスキーな取材活動が開かれるが、認知症の母を妻の洋子に押し付ける行為を必至にする。
 
映像の中盤は、須藤の告発の信憑性を裏付ける3件の殺人事件の内実が、その忌まわしき情報をフォローする藤井の空想の世界の中で再現されていく。
 
 そこで映し出されたおぞましき実態は、事態を一面的にしか捉えられない暴力団組長・須藤の凶暴性と、それを巧みに操る木村の老獪な手口が融合し、身寄りのない老人をターゲットにした犯罪の執拗なまでの描写であった。
 
 その中でも、5000万円の借金の返済ができない、牛場電機の初老の経営者への殺害のシーンは常軌を逸していた。

 
本人が「うわばみ」(大酒飲み)であることを利用して、90%の濃度のアルコールを飲まされ、絶えていく描写のおどろおどろしさは、これが実話ベースである事実を想起すると、まさに、「凶悪」なる男たちのイメージにフィットする非日常性そのものだったと言える。
 
「親から受け継いだ土地に胡坐をかいて、終いには借金まみれ。そんなどうしようもない老人が次々と現れる。そいつらをただ殺すだけで、金が溢れてくる。ふん、まるで油田だよ。ふふ・・・世の中は長い不況だけど、今、我々はせっかくのバブルじゃないか。一日も早く出所して、また一緒に仕事をしよう」
 
 これは、須藤に指名手配が出た際に、建物や土地を安値で買い叩いて、高値で転売する不動産ブローカー・木村が弁護士等を始め、万全の援助を欠かさないことを約束したときの言葉。
 
それを真に受ける須藤。
 
 しかし、知能犯の木村が、単細胞の須藤を騙すのはお手の物。
 
 須藤が最も信頼する舎弟の五十嵐が、須藤を裏切って逃走資金の援助を求めて来たという木村の嘘に騙され、五十嵐を射殺するに至り、これで「邪魔者」を一掃した木村だけが生き延びていく。
 
 少なくとも、知能犯の木村の思惑は、この稀代の犯罪者のプラン通りに進行しているように見えた。
 
 そこに現出したのが、懲罰意識を推進力にした藤井の奔走による、「正義」の暴走だった。
 
 この間、藤井は、雑誌社を休んだばかりか、認知症の母のいる自宅にも帰ることなく、須藤が拘置所から告発した3件の殺人事件の裏付けをとるために、孤軍奮闘していたが、当然、姑の介護に疲れ果てている妻・洋子との決定的な確執を生む。
 
以下、木村の邸を張り込んでいた藤井が、公務執行妨害罪で警官に逮捕されたときの、留置所での妻・洋子との会話。
 
「修ちゃん。いつもそう。いつも逃げてばかり。騙し騙しやってきたけど、もう、限界。修ちゃんはさ、お母さんをホームに入れて、罪悪感を感じるのが嫌なんでしょ。それだけのために、私の人生が滅茶苦茶になってもいいの」
 
 この言葉に、本質を衝かれた者の感情が噴き上げた。
 
 「この記事を出せれば、殺人犯を死刑にすることができるかも知れないんだよ。死んでった人たちの魂を救えるんだよ!」
 
 「正義」を盾にした、この夫の叫びを、妻のリアリズムが打ち砕く。
 
 「死んでった人たちの魂なんて、どうだっていいよ。私にお母さんを押し付けて、綺麗事並べないでよ!あたしは、生きてるんだよ!あたしはただ、修ちゃんと普通の生活がしたいだけなの!」
 
 一貫して、嗚咽の中から吐き出す言辞には、「認知症の母を介護する妻」という重荷に耐性限界を越えた者の悲痛な叫びが、配偶者の弁明を拒絶する攻撃性に変換され、権力機構の小さなスポットを、存分な毒気で占有する破壊力に満ち満ちていた。
 
ともあれ、妻から「綺麗事並べないでよ」と難詰された、藤井の「正義」の暴走が功を奏して、「上申書殺人事件」の一端が巷間に明らかにされ、木村は逮捕されるに至る。
 
まもなく木村は、牛場悟保険金殺人事件の刑事裁判の被告人となり、検察側証人の須藤との対決の展開を呈するが、当然の如く、相手検事と自陣営の弁護人との応酬である。
 
「記者を使って、死刑執行を先延ばしにしようとしたのは本当です」
 
須藤の証言である。
 
「木村とは、どういう男ですか?」
 
検事の質問に、明瞭に答えていく須藤。
 
「人殺しです。人の死を金に替える錬金術師です。わしも死刑だと言うなら、木村も間違いなく、死刑に値する人間です」
「私は、人を殺した覚えなどない!」
 
咄嗟に、木村も反応する。
 
「もしかしたら、そうなのかも知れない。あんたには、本当に人を殺した実感がないのかも知れない。私はずっと、暗い牢獄の中で、このときを待ってた。この手で殺せないなら、せめて一緒に行きましょうよ。地の底まで」
 
須藤の証言は、激しい敵愾心に溢れていた。
 
須藤を睨みつける木村。
 
 牛場悟保険金殺人事件の裁判の結果、木村は無期懲役となった。
 
―― 以上、物語のポイントを押さえた梗概と、それに関わる簡便な批評を加えてきたが、以下の稿では、私にとって気になる問題に絞って言及していく。
 
 
 
2  「凶悪さ」という概念のアナーキーな氾濫への違和感
 
 
 
映画的完成度という一点で本作を評価しながらも、そこで映像提示された内実に違和感を持った私の問題意識に沿って、ここでは、人生論的映画評論の視座で本作を批評していきたい。
 
まず、本作のメッセージの一つと思しき、以下のコンテクスト。
 
「凶暴さは誰しもが根本に持っている。それが表に出るか、出ないか。殺人を犯すなんてとんでもないことだけど、実際にそれは起こっている。『凶悪』はそうならないための警告。『いかに自分がそこに行き着かないか』を考えるきっかけになる白石和彌監督インタビュー・宅ふぁいる便
 
私は、この冒頭の言葉を目にして、正直、驚いた。
 
「凶暴さは誰しもが根本に持っている」という、作り手の発言である。
 
大体、「誰しもが根本に持っている」「凶悪さ」とは、一体、何を指しているのか、判然としないからである。
 
「凶暴さは誰しもが根本に持っている」と言い切る根拠が知りたいのだ。
 
幼児期からの経験や大脳皮質前頭連合野の制御を受けていて,生物学的適応であると同時に、気の遠くなるような進化の過程において形成されてきた、私たち人間の感情の複雑な形成過程を軽視する「芸術表現者」の短絡思考性。
 
それを感じてしまったのである。
 
どのような人間観を抱懐しようと自由だが、根拠の希薄な「凶悪さ」という概念について、観る者それぞれが、思い思いのイメージを抱いてしまうこと。
 
それでいいのかも知れない。
 
「凶悪さ」という概念についてのアナーキーな氾濫。
 
それもいいのだろう。
 
映画とはそういうものだ、と言われたらそれまでかも知れないが、この映画の険阻な展開を追っていく限り、「特定他者」を消費するビジネス本位のメディア批判のメッセージをも包括し、「正義・人道・被害者人権」に極端に振れ、「犯罪者の人権利得」に攻撃的に指弾するジャーナリストの暴走をも含めて、鑑賞後、多くの観客は、その暴走こそが「凶悪さ」の具現化された形象であると解釈するだろう。
 
これは、本稿の冒頭で、本作に対する私なりの基本解釈を書いた通りだが、それもまた、私の勝手なイメージの結晶点でありながらも、大方の解釈と乖離するものではないと思われる。
 
然るに、「凶悪さ」の定義が、仮に、この物語の二人の重大な刑事犯のケースにのみ収斂されないのだとしたら、一体、「凶悪さ」とは何を意味するのか。
 
私は、この作り手の確信的言辞に共鳴し得ない立場から敢えて問うが、極限状況下で、急迫不正の侵害的暴力に対し、「構成要件」という犯罪のパターンに該当しても、人間が犯す生存本能的・自己防衛的な過剰な正当防衛の行為までをも包括するならば、決して首肯できない訳ではないが、では、その行為を「凶悪さ」と言えるのか。
 
このように、限りなく拡大解釈される事態を容認してしまえば、前述したように、「正義・人道・被害者人権」を特化して、その「絶対無敵」の「錦の御旗」を掲げて糾弾するあまり、暴走するジャーナリストの行為をも「凶悪さ」の範疇に収斂されてしまうのである。
 
この一点に、私の違和感が集約されている。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/凶悪(‘13) 白石和彌 <「凶悪さ」という概念のアナーキーな氾濫への違和感>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/06/13.html