「二十日鼠と人間」における、「二人の登場人物の関係の本質」を考えるとき、その関係の偏頗(へんぱ)性を無視できないだろう。
聡明なジョージと、知的障害のあるレニーの関係の偏頗性である。
この二人の関係は「対等」ではなく、明らかに対象依存的な性格を持っているのだ。
そして最も由々しきことは、友情が成立する不可避な要件とも言える、「共有」という心理的な因子が、二人の関係には決定的に不足しているのである。
「共有」という心理的な因子の中で、最も重要なのは「情報の共有」である。
これは「記憶の共有」に集約されるが、とりわけ、「秘密の共有」という因子は、友情の深化を決定づけると言っていい。
果たして、二人の関係のうちに、この「記憶の共有」乃至、「秘密の共有」が存在したのか。
指示的傾向の強いジョージの言葉だけは決して忘れることがないレニーだが、しかし学習性の高い情報に関しては殆ど記憶されることなく(ジョージが嘆くシーンあり)、従って、そこに「情報の共有」は形成されにくかった。
これは、知的ハンディを持つレニーの学習能力の障害の故に、それをサポートするジョージとの関係が、思いやりを基調にした支配・服従関係の性質を帯びてしまう制約でもあった。
この二人の関係に、「記憶の共有」が形成されにくかったのは必然的だったのである。
それでも彼らには、「秘密の共有」があった。
それは「農場を持つ夢」である。
これについては、二人の会話がある。
レニーの不始末によって農場から逃走した果ての、野宿での会話である。
「俺たちみたいに牧場で働く連中は、世界一孤独なんだ。家族もなく、住む家だってない。希望もなく・・・」
これは、ジョージの言葉。
「でも、俺たちは違うだろう?」とレニー。
「そう。俺たちには未来がある。お互い語りあう友を持っているんだ。他の連中は不幸に遭えば最後さ」
「でも、おいらにはあんたがついているし、あんたにはおいらだ」
「いつか、俺たちは小さな家と数エ―カーの土地を持つんだ。そして、牛や豚や鶏を飼う」
「立派に自立して、そこでウサギも飼う」
何とも微笑ましい会話だったが、しかし殆ど実現可能性のない二人の夢が、右手首が不自由な老人キャンディーとの関係を介して、俄(にわか)に現実味を帯びる状況が形成されたが、その大計画も学習性の高い情報を内化し得ない、レニーの障害に起因する不始末によって、呆気なく頓挫したばかりか、最も悲惨な結末に流れるに至ったのだ。
これは結局、「情報の共有」の中で最も重要な、「危機意識の共有」が欠落していたためである。
ジョージとの関係において、「危機意識の共有」を全く持ち得ないレニーの学習能力の障害こそが、レニーの生命を奪い、この関係を自壊させた本質的な原因であった。
「親愛」だけでは、深い友情関係を構築できないのだ。
しかし、夢への実現が困難である現実を想起するとき、一方的な「援助」、「依存」の偏頗性を考えれば、本質的に二人の関係の様態は、「いつの日か自壊する危うさ」を常態化させていたのである。
それでも、差別されている脊柱側湾症(せむし)の黒人と違って、ジョージなしに生きられないレニーが、「差別」という不必要な負荷を運命づけられた、その人生の血路を切り開く営為の困難さは自明であった。
それが充分に把握できていたからこそ、ジョージはレニーをサポートし続けたとも言える。
まして、この大恐慌時代下にあって、厳しい生活を強いられた社会的弱者が、「差別」という不必要な負荷を、限りなく軽量なものにする人生を保証・継続するには、ジョージのような人格の存在なしに不可能だったに違いない。
時代の厳しさを無視して、この特殊な関係の立ち上げと、その破綻の悲劇を語れないのだ。
(人生論的映画評論/ 二十日鼠と人間('92) ゲイリー・シニーズ <「深い親愛感情」をベースにした、「対象依存的な友情関係」の見えない重さ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/11/92_19.html
聡明なジョージと、知的障害のあるレニーの関係の偏頗性である。
この二人の関係は「対等」ではなく、明らかに対象依存的な性格を持っているのだ。
そして最も由々しきことは、友情が成立する不可避な要件とも言える、「共有」という心理的な因子が、二人の関係には決定的に不足しているのである。
「共有」という心理的な因子の中で、最も重要なのは「情報の共有」である。
これは「記憶の共有」に集約されるが、とりわけ、「秘密の共有」という因子は、友情の深化を決定づけると言っていい。
果たして、二人の関係のうちに、この「記憶の共有」乃至、「秘密の共有」が存在したのか。
指示的傾向の強いジョージの言葉だけは決して忘れることがないレニーだが、しかし学習性の高い情報に関しては殆ど記憶されることなく(ジョージが嘆くシーンあり)、従って、そこに「情報の共有」は形成されにくかった。
これは、知的ハンディを持つレニーの学習能力の障害の故に、それをサポートするジョージとの関係が、思いやりを基調にした支配・服従関係の性質を帯びてしまう制約でもあった。
この二人の関係に、「記憶の共有」が形成されにくかったのは必然的だったのである。
それでも彼らには、「秘密の共有」があった。
それは「農場を持つ夢」である。
これについては、二人の会話がある。
レニーの不始末によって農場から逃走した果ての、野宿での会話である。
「俺たちみたいに牧場で働く連中は、世界一孤独なんだ。家族もなく、住む家だってない。希望もなく・・・」
これは、ジョージの言葉。
「でも、俺たちは違うだろう?」とレニー。
「そう。俺たちには未来がある。お互い語りあう友を持っているんだ。他の連中は不幸に遭えば最後さ」
「でも、おいらにはあんたがついているし、あんたにはおいらだ」
「いつか、俺たちは小さな家と数エ―カーの土地を持つんだ。そして、牛や豚や鶏を飼う」
「立派に自立して、そこでウサギも飼う」
何とも微笑ましい会話だったが、しかし殆ど実現可能性のない二人の夢が、右手首が不自由な老人キャンディーとの関係を介して、俄(にわか)に現実味を帯びる状況が形成されたが、その大計画も学習性の高い情報を内化し得ない、レニーの障害に起因する不始末によって、呆気なく頓挫したばかりか、最も悲惨な結末に流れるに至ったのだ。
これは結局、「情報の共有」の中で最も重要な、「危機意識の共有」が欠落していたためである。
ジョージとの関係において、「危機意識の共有」を全く持ち得ないレニーの学習能力の障害こそが、レニーの生命を奪い、この関係を自壊させた本質的な原因であった。
「親愛」だけでは、深い友情関係を構築できないのだ。
しかし、夢への実現が困難である現実を想起するとき、一方的な「援助」、「依存」の偏頗性を考えれば、本質的に二人の関係の様態は、「いつの日か自壊する危うさ」を常態化させていたのである。
それでも、差別されている脊柱側湾症(せむし)の黒人と違って、ジョージなしに生きられないレニーが、「差別」という不必要な負荷を運命づけられた、その人生の血路を切り開く営為の困難さは自明であった。
それが充分に把握できていたからこそ、ジョージはレニーをサポートし続けたとも言える。
まして、この大恐慌時代下にあって、厳しい生活を強いられた社会的弱者が、「差別」という不必要な負荷を、限りなく軽量なものにする人生を保証・継続するには、ジョージのような人格の存在なしに不可能だったに違いない。
時代の厳しさを無視して、この特殊な関係の立ち上げと、その破綻の悲劇を語れないのだ。
(人生論的映画評論/ 二十日鼠と人間('92) ゲイリー・シニーズ <「深い親愛感情」をベースにした、「対象依存的な友情関係」の見えない重さ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/11/92_19.html