波紋('23)   狂わなければ〈生〉を繋げない女の突破力

 

圧巻の筒井真理子

 

現時点での彼女の最高到達点ではないだろうか。

 

 

1  「あなたがしたこと、なかったことにはならないから。癌だからって何だって」

 

 

 

須藤依子(以下、依子・よりこ)が目を覚ますと、目の前に夫・修(おさむ)の足の裏があった。

 

二人はダブルベッドで互い違いに寝ている。

 

須藤家のリビングでは、福島第一原発事故による放射能汚染のニュースが流れていた。

 

依子はソファに寝転んでスマホを見ながらSNSの情報を読み上げる息子の拓哉(たくや)に、「水道水は絶対に飲まないでよ」と言いながら、義父の食べるお粥(かゆ)を水道水で作り、介助する。

 

会社から帰って来た修は、原発事故のニュースをぼんやりと聞いた後、趣味のガーデニングで奇麗に植えられた庭に出て、降り出した雨の中でホースの水を出し、浮草の間をメダカが泳ぐ水鉢を見て立ち竦む。

 

夕飯の支度が出来て、拓哉に修を呼びに行かせるが応答がない。

 

降りしきる雨の中、依子が庭に出ると修の姿はなく、水を出したままのホースを拾うのだ。

 

夫は失踪したのである。

 

11年後。

 

依子は新興宗教・緑命会(りょくめいかい)の勉強会に参加して、波紋を映す動画の前でリーダーの橋本昌子(以下、昌子)の訓話を聞く。

 

「私たち一人ひとりは、この小さなひと滴(しずく)のようなものです。でも、このひと滴がなければ、波は決して起こりません。生きていれば辛いことも、苦しいことも沢山ありますが、憎しみや恨みなど、濁った魂はそこに停滞し、浄化されることはないのです。緑命水の尊い一滴は、私たちのよどんだ心を、きれいに洗い流してくれる作用があります。私たち一人ひとりの善い行いは、波紋のごとく確実に、広く世界に伝わっていきます。皆さん、切磋琢磨いたしましょう」

 

全員で祈りを唱えた後、「♪信仰あらば、恐れなし♪」などと歌いながら、満面の笑みで真剣に踊る信者たち。

 

穏やかな表情の依子は、家でも緑命会の祭壇を作り、信仰の文言(もんごん)を唱え、緑命水を飲む。

 

スーパーで働く依子が家に戻ると、突然、戻って来た労務者姿の修を冷たく見据える。

 

「親父に線香あげたいんだけど」

「半年も前だけど」

 

修が育てていた花壇は、枯山水様式の庭に代わっていた。

 

枯山水(かれさんすい)とは、水を象徴した白砂(はくさ)を庭に敷き詰め、その白砂の上に景石(けいせき)を置き、白砂に波紋を描いたりして、自然を表現する日本庭園のこと。砂紋(さもん)を描いた庭を守るために「飛び石」を置く。京都の「龍安寺」(りょうあんじ)や「大仙院」(だいせんいん)などの庭が知られている】

 

依子が引き出しから出した遺影に手を合わせた修が振り返り、依子に頭を下げた。

 

「親父のこと、すまなかった」

「もう、いいでしょ」

 

立ったまま腕組みをしていた依子は、義父の遺影を修に押し付け、帰そうとする。

 

拓哉が九州で就職したと聞かされた修は、「実は、癌なんだよ」とポツリの一言。

 

キッチンで背を向けていた依子は、「え?ご飯食べるの?」と振り返る。

 

依子が作ったご飯を美味しそうに食べる修が、酒がないかと聞くと、水しかないと答える依子は、緑命水ではなく水道水を差し出した。

 

「最期は君の所でって思って」

 

依子の箸の手が止まり、修を一瞥するが、何も答えない。

 

最初から虚言だと分かる修を、その日、義父の介護ベッドを用意して修を泊める依子。

 

二人の会話は拾えない。

 

翌朝、起床した修の視界に飛び込んできたのは、枯山水の庭で白砂利(しろじゃり)の上にレーキ(砂かき棒)を使って砂紋を描いている依子の真剣な表情。

 

大自然のお恵みを。森と水の精霊が、清らかなる我らの心に宿りたまえ」

 

その依子は、いつものように祭壇で唱えた後、パートの仕事に出て行った。

 

一人になった修は、次々に引き出しを開け、金目のものを探し回る。

 

目当てのものが見つからず、祭壇の大きな水晶玉を持ち上げ、光に翳(かざ)す。

 

帰って来た依子が、祭壇で祈りを始めると、水晶玉に修の指紋がベタベタとついているのを気づいて呼吸が荒くなった。

 

依子はその水晶玉を持ち上げ、緑命水を飲んでいる修の頭を打ち付けんと想像するが、その感情を必死に抑えて、祈りを続けていくのみ。

 

依子は昌子に相談するが、「あなた今、試されているんじゃないかしら」と夫を許すことをアドバイスされる。

 

修は相変わらず家の中を物色し続け、大量の緑命水が置かれた部屋を見つけ、帰って来た依子に、「一体、何を信じているのか。何百万も金を騙されているんじゃないか」と訊ねるが、返事はない。

 

自己犠牲を自らに強いる依子は、夫が探し出した酒を飲むことや、一緒に病院で説明を聞くことも受け入れるのだ。

 

そこで担当医から、保険適用外の治療で一回150万を3回で1クールと高額なので、奥様と相談するようにと言われる。

 

帰路、歩きながら、修は父親の遺産について訊ねてきた。

 

「フッ…そういうことだったの。いや、そんなことでもなければ、帰って来るはずないか」

「頼む」

「考えさせて下さい」

「こっちはもう、ライフラインそれしか残されてないんだぞ!家は俺も名義だからな。いざとなったら…」

 

本音を吐いた男と、それを淡々と聞き流す女の構図に掬い取れる情感が希薄だった。

 

更年期の症状に悩まされる依子を案じて、市民プールを勧めていたスーパーの清掃員・水木(みずき)と、思い切って行ってみたプールでばったりと会い、突然、帰って来た夫の話をする。

 

夫を受け入れられないと依子が吐露すると、水木はさっさと追い出してしまうようにアドバイスし、癌だと聞かされると、「あとで後悔したくなかったら、死なれる前にしっかり仕返ししとかないと」と言い放つのだ。

 

「仕返し?そんなことしたら魂の次元が…人を呪うと、やがて結局、自分の所へ返ってくるって」

「“肉を切らせて骨を断つ”って諺(ことわざ)もあるよ。捨て身で敵に勝てってこと。自分も傷つく覚悟で、相手に大打撃を与えてやるのよ…昔の女じゃないんだからさ。そんな風に自分の感情を抑えつけることないんだよ」

 

この水木の言葉が、依子の澱んだ心を浄化していく。

 

未承認薬の件を催促してきた修に対して、依子は義父の相続を自分に遺すという遺言を書いてもらっていたことを話す。

 

「あなたが捨てたお義父さん、私が看取ったんだから」

 

机を叩いて立ち上がり、興奮する修。

 

「死ねって言うのか!」

 

それぞれの足元の波紋の上に立って、向き合う二人。

 

「あなたがしたこと、なかったことにはならないから。癌だからって何だって」

「時間がないんだよ。時間がないんだよ!あんな水に大金使い込みやがって。騙されてるんだよ。インチキなんだよ!目を覚ませ!」

「何言ってるの?全宇宙生命体の魂を浄化できるのは緑命水だけなのよ」

 

ぶつかり合う二人の波紋の描写が、VFX(視覚効果を付与する技術)によって表現されていた。

 

「許さなくていい。許してくれなくていいから、助けて下さい」

 

深く頭を下げる修に対して、満面の笑みで答える依子。

 

「あなたも、緑命水のパワーを信じましょうよ」

「信じたら、金出してくれるの?」

「さあ、どうかしら」

 

それだけだった。

 

ひとみ、節子ら緑命会のメンバーらが、公園でホームレスに炊き出しで食事と緑命水を配っている。

 

長蛇の列に修も並び、黙って食事を受け取るのだ。

 

ベンチに座って依子が休んでいると、修が隣のベンチに来て座る。

 

「俺のことは助けてくれないのに、ホームレスの人たちのことは、随分熱心に手助けするんだね…この水、消費期限が一年前だった」

「貧しい人たちは、癌になっても黙って死を待つだけね。じたばたする余裕もない…薬のお金は出します。でも、ちょっと付き合ってもらうから」

 

付き合わされたのは緑命会の勉強会。

 

勉強会での昌子の言葉。

 

「残念ながら、私たちは誰も死から逃れることはできません。でも、魂の純真を保っていれば、死という運命にさえも対抗できる」

 

挨拶を求められた修は、口籠りながら、ここだけは場の空気を読んだ出任せ言辞に結んでいく。

 

「これから先、もうそんなに長くないかも知れません。そんな私が、家族のために、最後に何ができるんだろうか…考えたんです。でも、考えても考えても、何もないんです。情けないことに、何も…」

 

そこで修は閃(ひらめ)いたように、手を祭壇に合わせる。

 

「祈ること以外には…妻が日々熱心に祈ってる姿を見て、正直、最初はバカにしてました。でも人間は結局、最後は祈ることしか残されていないんですね。そのことを、妻の祈りの姿から教わりました…祈ることで心を鎮め、謙虚につつましく、穏やかに余生を過ごしたい。妻には感謝の気持ちでいっぱいです」

 

「感動しました」と言って涙ぐんで拍手する信者たち。

 

リーダーが修のために祈ろうと呼びかけ、全員で唱和しながら祈りを捧げるのだ。

 

呆れた顔で信者たちを見回し、一緒に合掌し、その後、輪になって踊りが始まり、修も適当に合わせていく。

 

ともあれ、自らのステータスを上げるために修を同行させ、信者を増やすという依子の目論見(もくろみ)が奏功したというエピソードだった。

 

まもなく、修が入院して点滴治療を受け、傍らに座る依子は、一滴ごとに「はい15万…はい20万」とカウントしていく。

 

一転し、ストレス解消の有効な手立てであるプールで泳ぎ終わった依子は、水木から「いっそ、やっちまったら」と声を掛けられる。

 

「ウソよ。ハハハ。どうせ癌なんでしょ。ほっといたって、先にくたばってくれるんだから。でも、念じるだけなら罪にはならないよ」

 

目を輝かせた依子は、早速、自宅の祭壇前で手を合わせるのである。

 

彼女の変容の初発点になっていくのだ。

 

 

人生論的映画評論・続: 波紋('23)   狂わなければ〈生〉を繋げない女の突破力  荻上直子