サラバンド('03) イングマール・ベルイマン <圧倒的な女の包括力と強靭さ ―― ベルイマンの女性賛歌の最終的メッセージ>

 序  肉塊の襞をも裂く人間の孤独の極相を抉り出して


 ハイビジョンデジタルビデオカメラ(HDカメラ)の技術を駆使して抉り出された世界は、体性感覚の微細な揺らぎの見えない刺激まで捕捉して、自我の支配域をファジーにした、人間の愛憎の闇の深い辺りで迷妄する肉塊の襞をも存分に裂いてしまうのだ。

 85歳のベルイマンが、20年ぶりに撮り上げた本作の凄みは、テーマに関わらない一切の装飾を剥ぎ取って、ひたすら人間の孤独の極相を、これ以上入り込めない心の奥にまで潜り込んで、ベルイマン特有の冷徹な眼差しの内に描き出したところにある。

 圧倒されて、震え慄く程だった。

 もうベルイマンの新しい映像と出会えないと思うと、観初めて10分も経たないうちに、そこで捨てられた遣る瀬ない気分の揺曳の中で、乾燥し切った被膜の頬を、液状の細いラインがうっすらと濡らしていた。

 「サラバンド」―― 全10章から成る、この最後にして、或いは、最高の作品になるやも知れない映像には、追い詰められた男たちの孤独を小さく包み込む、優しい眼差しも投げ入れられていた。

 そこだけはベルイマンらしくない、「大いなる調和」への、それ以外にない渇望の疼きだったのか。



 1  マリアンの訪問



 プロローグ。「写真を見せるマリアン」


 広いテーブルの上に山積みになった写真を見せながら、カメラ目線で語りかける一人の女。

 マリアンである。

 「ヨハンは老年に入り、富豪になった。莫大な遺産を受け取ったから。経済的に余裕のできたヨハンは大学の仕事を辞め、祖父母の持ち物だった森の中の別荘を買い取った。ヨハンとは、ずっと疎遠だった。私たちの二人の娘は、遠くで暮らしている。マッタは療養所。独りで病気の世界に沈み込んでいるわ。私が行っても、母親だと分らない。サーラは結婚している。夫は優秀な弁護士で、オーストラリアへ移住した。子供はいない・・・私は今も現役の弁護士よ。でも自分のペースを守って、家族の揉め事や離婚を扱っている。ずっと考えていたの。ヨハンを訪ねようと・・・」


 第一章。「マリアン計画を実行に移す」


 「私は断ったんだ。今も同じだ。君とは会いたくない。なのに押しかけて来た。理由を聞こう」
 「それは、言えないわ」

 ヨハンとマリアンの30年ぶりの会話が、こうして開かれていく。

 マリアンは、近くの小屋に住むヘンリックとカーリンのことを聞いていく。

 「ヘンリックは妻の死に耐えられず、早期退職したんだ」
 「父親似ね」
 「とんでもない。私がくだらん伝統主義と揉めたことは確かだが、ミシガン大の名誉博士号を授与されて収まった」
 「それで、ヘンリックは?」
 「ウプサラ室内管弦楽団で、責任者をやっている。だが、じきに止めるだろう」
 「カーリンは?」
 「あの子ももチェロ好きで、この秋、音楽大学を受験する。父親が教えているよ。来る日も来る日も、小屋で二人で練習している」
 「あなたは?」
 「孤独な隠居生活が、時に地獄に思える・・・過去を充分に振り返り、整理もつけた」
 「楽しくなさそう」
 「そりゃ、つまらんよ」
 「どんな人生だったという結論なの?」
 「クズみたいな人生だった。全く無意味で、くだらない一生だ」

 息子を嫌い、自らの隠遁生活をネガティブに語る、ヨハンの毒気含みの言葉が、元妻の前で捨てられていった。


 第2章。「およそ、1週間後」


 ヨハンの留守に、孫娘のカーリンが訪ねて来た。

 マリアンがカーリンを迎えたのである。

 カーリンは、父親ヘンリックからチェロの個人指導を受けているが、そこでストックされたストレスをマリアンに吐き出していく。

 「私はパパに言った。“これはレッスンじゃない。拷問だ”パパは怒っているくせに笑って、“最初からやろう”って。ミスをしたら、わざと失敗したと責められた。だから私は言ったの。“仕方ないでしょ。パパは教師の才能がない”。その時のパパは、世界一寛容で、敏感な先生で、こう返したわ。“教える側に責任はない。意欲と練習の問題だ。お前は怠けるからだ”私は立ち上り、震える手でチェロを置いたわ・・・パパは青ざめた。そんなの初めて。そして言ったの。“家から出さん”。私は構わず靴を履き、扉へ向かったわ。するといきなり、肩を掴まれた。“出て行くのは許さん。絶対に出さないぞ!”」

 森の中を彷徨するカーリンを、映像は映し出した。

 「でも、分ったの。パパがいなければ、私は何もできないということを。もう一つ、分った。ママは死んでしまった。もう何も聞けないの。自分が哀れで、また泣き叫んだわ」

 カーリンの話を真摯に聞いていたマリアンは、父親ヘンリックの自殺の不安を指摘した。

 「なぜ私は、ママのように愛されないの?ママは死の床で、私に“愛してるわ”と言ったの」

 カーリンの訴えに、マリアンは結婚に失敗した自分の経験について語った。

 「何度も浮気されたけど、世間知らずで疑うことをせず、純粋な愛情を持っていた。ヨハンっていう人は可哀想なのよ」

 マリアンは、カーリンの祖父に当たるヨハンとの関係を涙交じりに話し、カーリンのストレスを吸収し、相対化しようとするのだ。

 こうして、年齢の離れた二人の女の距離は一気に縮まっていった。



 2  父と娘、そして父と息子



 第3章。「アンナについて」


 ヘンリックの山小屋。

 一つのベッドで、添い寝する父娘がいる。

 娘の家出に衝撃を受けた父は、亡妻のアンナと起こした由々しきトラブルについて、傍らの娘に語っていく。

 「“不満を吐き続けるなら、もう別れるわ。”そして廊下へ行くと、荷造りを始めたんだ。私は不安に襲われて、ますますいきり立った。止めようとしたが、アンナはきかない。だが、彼女の気持ちが体越しに伝わってきた。“私は出て行く。もうお別れだ”とね。私は自分でも驚く声で言った。“許さない!私を捨てて出て行くなんて。絶対に許さない”と。言った後で気付いた。“もう、終わりだ”だが、台所で気配がした。彼女がコーヒーを入れていた。その晩はずっと無言で、ただ縫物をしていた。子供が母親に言うように、“もう、二度としません”と、私は謝った。お前にも同じことを言いたい。あの晩、私はアンナの寝顔を見て、“私にとって、どれほど彼女が大きな存在か、本人は知っているだろうか”と・・・お前が出て行けば、私は困窮する。他に言いようがない。やがて、お前は自由となり、音楽大学へ行く出ろう。お前と過ごして来た時間は、神の恵みそのものだった・・・そのうち私には、恐ろしい罰が下る気がする・・・」


 第4章。「一週間後、ヘンリックが父親を訪ねる」


 父親ヨハンを訪ねた、ヘンリックの第一声は借金の申し込みだった。

 「遺産を前借りしたい」
 「返す気配もないくせに」
 「息子を見下す気ならもう一つあるよ。僕は小屋の家賃を払ってない」
 「一銭も払ってない。車を買ったな」
 「借りたんだ。持ち主は海外に行っている・・・僕が来てから、ずっと厭味ばかりだ。金が必要なければ、とっくに帰っているさ」
 「では、帰れ」
 「僕のためじゃない。カーリンのためだ」

 ヘンリックは帰りかけて、振り向いて言った。

 「そうか。父娘喧嘩をしたそうだな。金で引き止めるのか?女々しさの中に、まともな憎悪が垣間見える」

 ヘンリックは必死に、カーリンの才能のアピールをする。

 拒絶の姿勢を崩さないヨハン。

 「父さん、なぜそんなに僕に冷たい?」
 「勝手な言い分だ。お前が18歳の頃、私は歩み寄ろうとした。反抗のひどいお前と話すよう、母さんが望んだからだ。私は言った。“悪い父親だったが、改善したいと思っていた”すると、お前は叫んだ。“父親なんかじゃない!あんたがいなくても、生きていける。”とも言った。偽りのない気持ちだ。尊重すべきだろう。私は憎まれても平気だ。お前はいないのも同然だ。母親似のカーリンが生まれていなければ、お前は私にとって存在しない。敵意すらない」

 遥か昔の出来事への拘泥を言語化する父と、その父の話を茫然と聞く息子。

 涙が滲んでいた。


 第5章。「バッハ」


 淡い光が差し込む澄んだ朝の教会で、ヘンリックはオルガンを弾いている。

 そこに入って来るマリアン。

 マリアンに話しかけるヘンリック。

 「アンナが亡くなって2年。でも、まだ辛い。本当です。今は惰性で生きている。何かが欠けている。無能になった。今はカーリンだけが生きがい。あの子がいなければ、生きる意味がない。近頃、死を考えるのです・・・人は生涯、死について思い、死後のことを考え続ける・・・」

 別れかけに、ヘンリックは弁護士のマリアンに信じ難きことを相談した。

 「父を訴えられませんか?財産を抱え込んだまま、全然死なない」
 「彼が正気なら無理ね」
 「法的に言えば、正気だ」
 「お父さんが、そんなに憎い?」
 「言葉に尽くせないほど、憎いですよ。恐ろしい病気で死ぬのを、喜んで見送りたいものだ。毎日病院に行き、苦しむ様子を臨終までメモしたい・・・話を聞いてくれてありがとう。自分でも異常だと思うことがある。あまりに辛いから」

 マリアンは言葉を失って、教会の中で静かに祈りをあげた。


(人生論的映画評論/ サラバンド('03)  イングマール・ベルイマン <圧倒的な女の包括力と強靭さ ―― ベルイマンの女性賛歌の最終的メッセージ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/06/03.html