野良犬('49)  黒澤 明  <「前線の死闘」、そして「平和の旋律」へ>

 映像にいきなり映し出される飢えた野犬の尖った視線、獲物を一撃で噛み殺してしまうような牙。

 そこに「野良犬」という大きな字幕が映し出されて、「その日は恐ろしく暑かった」という導入が、観る者をサスペンスフルな映像に誘(いざな)っていく。

 若い村上刑事が射撃練習の帰路、うだるような暑さの中、バスに乗り込んだ。

バスの中は蒸れた人いきれの異様な熱気で、40度にも迫ろうとするような混雑振り。彼は白い私服のスーツの内側のポケットに、コルト式拳銃(アメリカ・コルト社が製造した回転式連発拳銃)を無造作に入れていた。

 「村上は疲れていた。それに何という暑さだ。バスの中は人いきれで気が遠くなりそうだった。赤ん坊が泣いていた。それから、隣の女の胸の悪くなるような安香水の匂い」(ナレーション)
 

 その日、村上刑事はこのバスの中で、不覚にも、警察官の自己証明でもあるコルト式拳銃を盗まれた。
そのことに逸早く気づいた彼は、犯人と思しき男を追って、必死に追い駆けていく。

 この国の戦後の復興間近な殺風景な町並みを、男たちは走り続けた。いつまでも走り続けた。しかし追う男は、逃げる男を遂に捕捉できなかった。
 
 
 警視庁捜査第一課での会話。

 「自分はどんな処分を受けても仕方がないと思ってます。自分は・・・」
 「自分は、自分はというのは止めて欲しいな。ここは軍隊じゃないんだから」
 「自分は、いや私は、どうしたら・・・」
 「どうしたらって、処分が決まるまで、そうやって突っ立っている訳にもいくまい。俺ならまず、スリ係に行くな。餅は餅屋だ」

 村上は明らかに、自分を失っていた。

 彼は軍隊出身者なのである。だから言葉の端々に、「自分は・・・」という主語が出てきてしまうのだ。相手は、警視庁捜査第一課の主任警部。軍隊で言えば、下士官か将校だろう。これは軍隊帰りの男が、刑事になって初めて起した不祥事だったのである。
 
 村上はスリ係の市川刑事のところに赴き、知恵を貸してもらうことになった。彼は鑑識課の手口カードを調べて、そこからスリのお銀の名を知ったのである。そのお銀こそ、彼とバスに同乗した女だった。

 市川刑事と二人で、村上はお銀を訪ねた。

 当然のように、お銀は白を切った。

 しかし、新人刑事は簡単に諦めない。自分の大失態で事件が起きる可能性があるからだ。刑事はお銀の後を、どこまでも追い駆けて行く。二人の我慢比べが、勝負の分け目となった。お銀は遂に、刑事の執念に根負けするに至った。彼女は場末の盛り場で、貸しピストル業を潜りとする者の存在を、刑事にヒントとして提示したのである。
 
 まもなく、場末の盛り場に薄汚れた軍服姿の男が出現した。

 村上刑事である。

 彼の視線は、獲物を追う野良犬の尖りをギラつかせていて、過剰なまでに攻撃的だった。

 モノクロームの映像は、刑事の厳しい表情と彼の歩行を執拗に捉えていく。獲物を追う眼と、その獲物を寸時の判断で追い駆ける前線兵士のような脚。雨に打たれても、ギラつく陽光に灼かれても、獲物を求める男の身体の緊張感は飽和点に達しつつあった。

 そんな中、「はじき要らねえか?」と声をかけてきた若い男がいた。その男の紹介で、村上はピストルを扱う一人の女と会った。彼は女に自分の身分を明かし、裏稼業の元締めの名を迫ったが、埒が明かなかった。新人刑事はまた一つ、不手際を加えてしまったのである。


 彼は係長から、三ヶ月間の減俸処分の辞令を受けることになった。

 その間、淀橋所轄内で彼のコルトと思われる拳銃による発砲事件が発生した。村上刑事は責任を感じて、主任警部である係長に辞表を出した。職務に誠実な男には、それ以外の責任の取り方が考えられなかったのである。

 「不運は人間を叩き上げるか、押し潰すかどちらかだ。君は押し潰される口か?心の持ち方次第で、君の不運は君のチャンスだ。なぜこの事件を担当させてくれと言わないんだい?こちらから阿部警部が担当主任として行くけど、行ってみる気あるかい?」

 係長は村上刑事の辞表を受理せず、彼の刑事魂に火をつけるようなフォローをする。

 「はっ!」
 「淀橋には、佐藤という、第一課出身の名うての刑事長がいる。一緒になるよう、電話しておいてやる」
 「はっ!」

 係長の言葉に九死に一生を得たかのような、如何にも青年刑事らしい反応である。相変わらずの軍隊口調で応対した青年刑事が、直ちに捜査の前線に飛び込んで行ったのは言うまでもない。

 そこには、如何にもベテランらしい風格を持つ佐藤刑事がいた。

 彼が取り調べていたのは、先に村上が捕捉した女だった。

 佐藤刑事の巧みな取り調べの結果、まもなくその女の口から、本多という男の名が浮上した。その本多こそ犯人と見込んだ佐藤の反応は、極めて迅速だった。本多という男が日常的に通うとされる後楽園球場に、一大捜査網を敷いたのである。


 その日の後楽園球場は、いつものように満員の観客を呑み込んでいた。

 グラウンドには、背番号16の川上哲治もいた。ジャイアンツ対ホークスの熾烈なゲームが開かれていく。緊迫したゲームの盛り上がりの中で、佐藤と村上はゲームの流れに心を合わせず、犯人の特定とその逮捕の方法に知恵を搾り出していく。

 その結果、場内放送を使って犯人を呼び出す手段を考えついた。人いきれの熱気で澎湃する場内に、犯人の本名が告げられたのだ。村上たちは犯人の反応を感じ取って、素早く動いた。まもなく、犯人は通路で逮捕されたのである。

 その犯人の供述から、一人の男の名が浮かび上がってきた。その名は遊佐(ゆさ)。

 この男こそが、村上のコルトを使って刑事事件を起した真犯人だった。捜査本部は、遊佐を逮捕するために一丸となっていく。その先頭に村上刑事がいた。

 「あの子は復員してから、すっかり人間が変わってしまって。可哀想に、復員のときに汽車の中で全財産のリュック盗まれて、それからグレ出したんです」

 佐藤と村上の両刑事は、遊佐の実姉を訪ね、犯人の事情を本人から聞き出した。

 「家出する前の様子は?」と佐藤刑事。
 「そうですねぇ。そうそう、あれは家出した日かしら、ご飯に呼んでも出て来ないんで、覗いてみると、あの子ったら、薄暗い部屋の中で頭抱えて泣いているんです。あたし、何だか怖いみたいで・・・」

 佐藤刑事が遊佐の部屋から手に入れた本人のノート。そこには、姉の不吉な予感を暗示する内容が書かれていた。

 「今日も眠れない。雨の音の中から、あの捨て猫の声が聞こえるような気がする。雨の中でまとわりついてきたあいつ。どうせ苦しんで死ぬんだ。一思いに殺してやれと思った。踏んづけたあの足の感じがまだ残っている。俺は弱虫だ。あのビショぬれの猫と同じだ。どうせ・・・」 

 犯人の手記の断片を読んだ両刑事は、この男が起す凶悪事件の暗い予感に捉われていた。


(人生論的映画評論/ 野良犬('49)  黒澤 明  <「前線の死闘」、そして「平和の旋律」へ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/49.html