雲が出るまで('04)   イエスィム・ウスタオウル <「ネガティブな自己像」を溶かした一枚の古い写真>

  「ネガティブな自己像」を自我の奥深くに隠し込んで、安定的な物語を構築した姉弟がいた。

 しかし、唯一の身内の死によって、安定的な物語を根柢から破綻させられた姉が、内側に封印していた「ネガティブな自己像」の本質的清算を、内的に要請されるに至った。

 然るに、姉のその「仕事」は、一貫して堅固な物語を延長させている弟を訪ねることによってのみ解決可能なものだった。

 弟の住所を探し当ててくれた一人の男のサポートによって、姉は遂に意を決した。
 
 ギリシアに住む弟を訪ねたのである。

 姉の安定的な物語を破綻させた原因は、唯一の身内であったセルマの死にあった。

 以来、彼女は塞ぎ込んで、雲を見ては頻りに考え込む日々が続く。

 自死を思うときもあった。

 そして、最も重要な姉の「ネガティブな自己像」とは、難民の彷徨の厳しさの中で弟を見捨てた過去の事実に起因するものだった。

 従って、彼女の「ネガティブな自己像」は、「弟を見捨てた薄情な姉」というイメージに結ばれる何かである。
 
 そして、弟の「ネガティブな自己像」とは、「姉に見捨てられた弟」=「見捨てられるに足る価値なき子供」というイメージに結ばれる何かであるだろう。

 姉の名は、アイシェ。本名はエレニ・テルジディス。

 その弟の名は、ニコ。

 ついでに書けば、弟の住所を探し当ててくれた男の名は、タナシス。

 ソ連への長い亡命生活から、トルコに帰還した人物である。

 この悲哀の物語は、「ネガティブな自己像」を本質的に清算する以外に生きられない女の、その贖罪の哀切を描き出したものだ。

 更に、そこには、「第一次世界大戦中、トルコのギリシャ系住民は国外に追放された」(冒頭の字幕)、ポントス人(注)と呼ばれる、少数派のギリシャ人の悲劇の歴史が横臥(おうが)していたのである。


(注)「第一次世界大戦中、オスマン帝国領の黒海沿岸を占領したロシアがロシア革命により混乱したのをきっかけに、ポントス共和国の建設が目指された。しかし、もともとこの地域でポントス人は人口的に多数派ではなかったため十分な勢力を築くことができず、アンカラのトルコ大国民議会政府(トルコ革命政権)軍に攻撃されると敗北して、一部の人々はソビエト連邦領に逃れた。一方、同じ時期にアナトリア半島西南部のエーゲ海沿岸地方で戦っていたギリシャとトルコが休戦後に住民交換協定を結んだことによりトルコ領内に残った東方正教徒の人々もギリシャ人としてギリシャに追放されることになったので、トルコ領におけるポントス人の共同体は完全に消滅した」(ウィキペディア・「ポントス人」より)


(人生論的映画評論/雲が出るまで('04)   イエスィム・ウスタオウル <「ネガティブな自己像」を溶かした一枚の古い写真>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/11/04.html