コックと泥棒、その妻と愛人('89)  ピーター・グリーナウェイ <「暴食」の問題に還元される、「悪」のイメージとしての究極の「黒」の破滅性>

  1  おぞましきカニバリズムの饗宴のうちに大団円を迎えるリベンジ劇



 本作は、「舞台」の幕の開閉によって、登場人物への過度な感情移入を抑制することで、観る者を限りなく客観的観劇者である姿勢の維持を求めている。

 「異化効果」の演劇的手法の導入である。

 更に、妻を暴行する男をフォローする場面転換の際、「レストランホールの赤」→「厨房の緑」→「駐車場の青」という風に変化する色彩の様式美の強調や、その色彩に関与して、例えば、「トイレの白」の中に身を置くとで衣裳も白に変色するという絵柄を見れば判然とするように、物語の「リアリズム」は最初から捨てられているのだ。

 本作はどこまでも、象徴化され、記号的意味を付与された「泥棒」のボスであるアルバートを中枢に、各登場人物の交叉の力動感によって勝負を賭けた映像。

 では、その内実は何か。

 ここに、ラストシーン近くにおける、二人の登場人物の重要な会話がある。

 雇われシェフのリチャードと、「泥棒」の妻ジョージナである。

 ―― ここで、このシーンに至るまでの簡単な経緯を書いておこう。

 フランス料理店“ル・オランデーズ"のオーナーとなった「泥棒」のボスであるアルバートは、毎晩、店にやって来て、下品な子分たちの前でグルメ通を気取り、マナー違反の乱暴を繰り返していた。

 
 
(人生論的映画評論/コックと泥棒、その妻と愛人('89)  ピーター・グリーナウェイ <「暴食」の問題に還元される、「悪」のイメージとしての究極の「黒」の破滅性>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/55.html