タクシードライバー('76) マーティン・スコセッシ <「英雄譚」という逆転ドラマの虚構の終焉>

 1  男の内側に潜む妄想心理という魔物



 殆ど病的な不眠症の故に、夜勤のタクシードライバーを仕事にする一人の男を介して、マーティン・スコセッシが特定的に切り取った、「悪の溜まり場」の「ビッグアップルアメリカの現状況性」というラベリングを、フィルムノワールの黒々とした旋律で映像化した奇跡的傑作。

 男の名は、トラヴィス・ビックル

 映像は、トラヴィスが記す日記を通して、どこまでも彼の視界から捕捉された、「悪の溜まり場」の「ビッグアップルアメリカの現状況性」の爛れた夜の世界を象徴する、売春婦、ホモ、オカマ、麻薬売人、ヤクザなどの腐敗の現実を特定的に切り取って、それらを「悪の巣窟」と断じる男の肥大した妄想が日々拡大されていく危うさを、スコセッシ特有の湿潤性を拭った散文的な筆致によって再現されていくのだ。

 ファーストシーンの鮮烈さが、いきなり、観る者の受容感度の非武装さを突き抜いてきた。

 辺り一面に白煙が立ち込める不気味な画像の中に姿を現す、一台のイエローキャブ

 その白煙の向こうに、爛れ切った夜の街を闊歩する者たちのラインが繋がって、それを視界に収めるギラギラした男の眼は、紛れもなく、凶暴なハンターのものだった。

 この挑発的なシーンこそ、「悪の巣窟」を払拭する意志を持つ男の、その立ち上げのマニフェストだったのか。

 鮮烈な映像の中で、男の暗い情念だけが吐き出されていく。

 「雨は人間の屑どもを、舗道から洗い流してくれる。僕は常勤になった。勤務は夜6時から朝6時。たまに8時まで。週に6日。7日の時もある。忙しいとぶっ通しで走る。稼ぎは週350ドル。メーターを切ればもっと多くなる・・・・・・

 夜、歩き回る屑は、売春婦、街娼、ヤクザ、ホモ、オカマ、麻薬売人。すべて悪だ。奴等を根こそぎ洗い流す雨は、いつ降るんだ?客に言われれば、俺はどんな所へでも行く。気にならない。どこだって同じだ。黒人を乗せない奴もいる。俺は平気だ・・・・・・

 ガレージに戻ると、客が汚した座席の掃除だ。血が付いている時もある・・・・・・12時間働いてもまだ眠れない。畜生、毎日過ぎていくが終わりはない。俺の人生に必要なのはきっかけだ。自分の殻だけに閉じこもり、一生を過ごすのはバカげている。人並みに生きるべきだ」

 深刻な不眠の地獄が、「終わりなき日常性の空洞感」を加速させる孤独な人生を、決定的に変容させる「きっかけ」を必要とする男が、そこにいた。

 そんな男の孤独な人生に穿たれた空洞感を埋めるに足る、決定的な転機が出来した。一人の女との、「運命的」であると信じる出会いが生まれたのだ。

 「初めて彼女を見たのは、63丁目の選挙事務所だ。白いドレスを着て、まるで天使だった。この掃き溜めには・・・あの気品、誰も彼女に触れることは不可能だ」

 「人間の屑どもを、舗道から洗い流してくれる雨」を切望する男の、極端にネガティブな妄想を稀釈し、中和化してくれる人格媒体こそ、パランタイン大統領候補の選挙事務所で見かけた運動員のベッツィだった。

 それもまた男の妄想の厄介な発動だったが、彼女との運命的出会いを信じ、それを唐突に告白する男が手に入れた一服の清涼感。

 そのとき男は、選挙事務所に堂々と乗り込んで、女にいきなり切り出したのだ。

 「ボランティアに来た」
 「私を手伝う理由は?」
 「君のような美人は初めてだからさ・・・君は独りぼっちだ。ここを通る度に見ていると、君の周りに大勢、人はいて、電話や書類で一杯だが、何の意味もない。ここに来て君に会い、その眼や動作を見ても、君は幸せな人じゃない。君には何かが必要だ。多分、それは友だちだよ」

 ピークアウトに達した男の妄想言語は、止まる所を知らなかった。

 「・・・俺たちの間には、強く感じる何かがあった。だから、君と話したんだ。さもなければ、君に声などかけやしない」
 「初めて、あなたみたいな人・・・“預言者と麻薬の売人”…事実と作り話が半々の、歩く矛盾よ」

 呆れながらも、未知の世界に棲む男の妄想言語に、女は一抹の好奇心のみで次のデートを約束させられた。

 そして男は女を映画に誘い、呆気なく破綻する羽目になる。

 女にポルノ映画を見せたからだ。

 その奇怪な行為によって、たった一度のお義理のデートを結んだに違いない関係が、立ち所に破綻する事態すら計算できない男の観念は、どこまでも自己中心的であり、決定的な想像力に欠けていた。

 
(人生論的映画評論/タクシードライバー('76)  マーティン・スコセッシ   <「英雄譚」という逆転ドラマの虚構の終焉>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/11/76.html