ソルジャー・ブルー('70)  ラルフ・ネルソン <「前線離脱」⇒「銃後彷徨」⇒「前線拒絶」という流れの中で破綻した「インディアン無罪論」>

 公開当時、私は本作を観たときに、名状し難い衝撃を受けたことを覚えている。

 ラスト20分間のシークエンスに震えが走った。

 観終わった後、席を立てなかったほどだ。

 ごく普通の好奇心でアメリカ史を学習していた私にとって、ベトナム戦争の爛れ方に怒りを禁じ得なかった事実や、本作で描かれたシャイアン族への一定の知識があっても、「サンドクリークの虐殺」という由々しき「アメリカ史の闇」につては全く知る由もなかった。

 本作が「ベトナム反戦」と脈絡を持つであろうことは感受できたが、程なく、1973年に出来した、「ウンデッド・ニー占拠事件」(注1)についての感覚的な情感的波動を胚胎させつつも、「アメリカ史の闇」というアポリアへの把握にまで、私の認知能力は届いていなかったのである。

 事態に対して情感的であり過ぎたからだ。


(注1)1890年に出来した、インディアンと米国合衆国軍隊との間で、サウス・ダコタ州にある居留地のウンデッド・ニーで、スー族(北部や中西部に先住するインディアン部族)の武装解除にあたって交戦した史実である、「ウンデッド・ニーの虐殺」の現場を挟んで、1973年、先住民の正当な権利を主張するAIM(アメリカ・インディアン運動)のメンバーによって、聖心カトリック教会が占拠されるという事件。


 今回、この映画を三度(みたび)鑑賞して、正直、大いに失望した。

 「小さな巨人」と並び称される、「映像史的に重要な作品」である本作に対する私の評価は、前者とは比較にならほどに低いものになっている。

 一言で言えば、当時の沸騰した政治社会状況の力学の肯定的なサポートを受けて、本作が強烈な問題意識による勢いによって作られた作品という印象を免れないのである。

 もっと言えば、寸足らずな「映像構築力」の不均衡さが目に余るのだ。

 「主題提起力」を補完する「構成力」が貧弱なのである。

 この瑕疵が看過し難いレベルにあるので、敢えて、「映像史的に重要な作品」でありながらも、それ以上の高評価を下せないのである。

 この完成度の低さが、最後まで気になった点である。

 同様に、情感系の勢いで疾駆していた、若かりし頃には把握し切れなかった、「映像作品としての客観的評価」の内実が、年輪を経ることで決定的に変容した典型的な映画 ―― それが、「ソルジャー・ブルー」だった。

 それでもアメリカという連邦共和国が、このような映画を製作し、一般公開できる国であること。

 その認知も捨ててはならないだろう。


(人生論的映画評論/ソルジャー・ブルー('70)  ラルフ・ネルソン  <「前線離脱」⇒「銃後彷徨」⇒「前線拒絶」という流れの中で破綻した「インディアン無罪論」>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/70_29.html