<「象徴的イメージを負った記号」の重量感に弾かれて>
1 象徴的イメージを負った記号
ここに、6人の日本人がいる。
1人、2人目は梶川夫婦。拡張型心筋症の息子(8歳)を持ち、近々、タイで心臓移植を計画している夫妻である。①
3人目は、買春目的でタイに行き、非合法でペドフィリア(小児性愛)を愉悦し、それを動画サイトに投稿する男。②
4人目は、人の眼を見て話せないために、隠し撮りを生業とするフリーカメラマンの青年、与田博明③
5人目は、「見て、見たものをありのままに書く」ということをモットーとするジャーナリスト、清水哲夫。④
6人目は、「所詮、自分探しなんだろ」と揶揄(やゆ)されながらも、タイのNGOで行方不明の少女を捜そうと試みる、ボランティア志望の若い女性、音羽恵子。⑤
そこに、「善悪」、「正義・不正義」の観念的判断を媒介させないで言えば、本作の中に、この6人の日本人の人格の内にそれぞれ象徴される固有の人生テーマ、生活様式、欲望ライン等が付与されていて、時には対立的に、しばしば重厚にクロスし合って、物語の骨格を成している。
それぞれを、①子を持つ親の愛、②小児性愛、③視線恐怖・臆病心、④職業的な平均スタンス、⑤正義という名のの感情ラインで突っ走る直接行動主義、という風に仮託しておこう。
そしてこの6人の中で、②の日本人を除いて、他の5人と何某かの接点を持ち、且つ、この6人が身体表現する全ての象徴性を具有している日本人がいる。言うまでもなく、本作の主人公である南部浩行である。
彼はバンコク支局駐在の新聞記者であるが、本社からの依頼でタイにおける人身売買の取材の過程で、生きたまま臓器移植される子供たちが存在するという震撼すべき事実を知り、まさに命懸けで、「闇の子供たち」の地下世界の深奥に迫っていく役割を演じている。
ここでは詳細なストーリーはフォローしないが、ただ本作が、そんな正義感溢れるジャーナリストのスーパーマン性を描く映画ではないことだけは確認しておこう。
その南部浩行が「ぺドファイル(小児性愛者)②」の過去を持ち、それ故、子供からの「視線恐怖③」にしばしば怯(おび)え(それを最も象徴するシーンが、花売りの少女の視線に過剰反応する序盤の描写)、それでも今はその病理の克服過程にあるのか、酒浸りの生活の中で最低限の「職業的な平均スタンス④」を捨てていないギリギリの日々を送っていた。
無論、映像は南部のその忌まわしき過去の一点のみをサスペンスタッチで描いていくから、観る者は彼のその振舞いの意味を、「闇の子供たち」の真実に肉薄しようと努める職業的な関心領域の範疇から生まれた、単に子供好きの男の自然な反応という風に了解するであろう。だからこのような描写が断片的に挿入されても、あっさりと看過してしまうはずである。
男のその最も由々しき病理を、観る者はラストシーン近くの描写によって知ることになり、そこに作り手が相当の覚悟を括ったに違いない、ラストシーンの多分に挑発的なメッセージ、即ち、「この映画は日本人自身の問題なんだ」という含みを持つ反転の描写が繋がることで、本作と誠実に付き合ってきた過半の観客は袈裟懸(けさが)けに遭うことになるだろう。
私たちは、このような物語設定の是非と評価を巡って、それぞれの感懐を持ち、或る者は許容できない気分の内に映像の嘘の世界に置き去りにされるかも知れない。当然、私も許容しないが、その辺りについては後述する。
1 象徴的イメージを負った記号
ここに、6人の日本人がいる。
1人、2人目は梶川夫婦。拡張型心筋症の息子(8歳)を持ち、近々、タイで心臓移植を計画している夫妻である。①
3人目は、買春目的でタイに行き、非合法でペドフィリア(小児性愛)を愉悦し、それを動画サイトに投稿する男。②
4人目は、人の眼を見て話せないために、隠し撮りを生業とするフリーカメラマンの青年、与田博明③
5人目は、「見て、見たものをありのままに書く」ということをモットーとするジャーナリスト、清水哲夫。④
6人目は、「所詮、自分探しなんだろ」と揶揄(やゆ)されながらも、タイのNGOで行方不明の少女を捜そうと試みる、ボランティア志望の若い女性、音羽恵子。⑤
そこに、「善悪」、「正義・不正義」の観念的判断を媒介させないで言えば、本作の中に、この6人の日本人の人格の内にそれぞれ象徴される固有の人生テーマ、生活様式、欲望ライン等が付与されていて、時には対立的に、しばしば重厚にクロスし合って、物語の骨格を成している。
それぞれを、①子を持つ親の愛、②小児性愛、③視線恐怖・臆病心、④職業的な平均スタンス、⑤正義という名のの感情ラインで突っ走る直接行動主義、という風に仮託しておこう。
そしてこの6人の中で、②の日本人を除いて、他の5人と何某かの接点を持ち、且つ、この6人が身体表現する全ての象徴性を具有している日本人がいる。言うまでもなく、本作の主人公である南部浩行である。
彼はバンコク支局駐在の新聞記者であるが、本社からの依頼でタイにおける人身売買の取材の過程で、生きたまま臓器移植される子供たちが存在するという震撼すべき事実を知り、まさに命懸けで、「闇の子供たち」の地下世界の深奥に迫っていく役割を演じている。
ここでは詳細なストーリーはフォローしないが、ただ本作が、そんな正義感溢れるジャーナリストのスーパーマン性を描く映画ではないことだけは確認しておこう。
その南部浩行が「ぺドファイル(小児性愛者)②」の過去を持ち、それ故、子供からの「視線恐怖③」にしばしば怯(おび)え(それを最も象徴するシーンが、花売りの少女の視線に過剰反応する序盤の描写)、それでも今はその病理の克服過程にあるのか、酒浸りの生活の中で最低限の「職業的な平均スタンス④」を捨てていないギリギリの日々を送っていた。
無論、映像は南部のその忌まわしき過去の一点のみをサスペンスタッチで描いていくから、観る者は彼のその振舞いの意味を、「闇の子供たち」の真実に肉薄しようと努める職業的な関心領域の範疇から生まれた、単に子供好きの男の自然な反応という風に了解するであろう。だからこのような描写が断片的に挿入されても、あっさりと看過してしまうはずである。
男のその最も由々しき病理を、観る者はラストシーン近くの描写によって知ることになり、そこに作り手が相当の覚悟を括ったに違いない、ラストシーンの多分に挑発的なメッセージ、即ち、「この映画は日本人自身の問題なんだ」という含みを持つ反転の描写が繋がることで、本作と誠実に付き合ってきた過半の観客は袈裟懸(けさが)けに遭うことになるだろう。
私たちは、このような物語設定の是非と評価を巡って、それぞれの感懐を持ち、或る者は許容できない気分の内に映像の嘘の世界に置き去りにされるかも知れない。当然、私も許容しないが、その辺りについては後述する。