劒岳 点の記('09) 木村大作<「仲間」=「和」の精神という中枢理念への浄化の映像の力技>

 1  入魂の表現力のうちに隠し込んで浄化させた映像総体の力技



 「昨今のチャラチャラした日本の男たちは・・・」、「金融資本主義に突っ走る、今の日本社会の荒廃は・・・」、「CGなどの表現技巧に依存するハリウッド映画の物真似は・・・」等々という説教を喰らいそうな映画だが、それでも本作が、「キャッチコピー」だけの欺瞞的なマヌーバーに堕さなかったのは、本作の基幹メッセージを、厳しく苛烈な自然に呑み込まれながらも、若い俳優たちの入魂の表現力のうちに隠し込んで浄化させたかに見える、殆ど神懸った映像総体の力技を表現し切ったからである。

 ここで言う、基幹メッセージとは、以下の要約の中で把握されるように思われる。
 
 その1 本作は映画それ自身よりも、映画製作そのものを目的としたかのようなメッセージを含んでいること。

 これは、「日本の映画とは何か」という作り手の強い問題意識の反映であるだろう。

 その2 「日本の男たちは誇りを持って、自分の仕事を引き受けているのか」という、曖昧模糊とする厄介な問題提起。

 その3 「人間と自然の関係はどうあるべきなのか」という、些か手垢に塗(まみ)れながらも、「現代人が失った自然への畏敬の念」の復元を謳ったメッセージ。
 
 その4 「自分、或いは、自分たちさえ良ければ、それで満足」という、「スポーツの遊戯化」に象徴される、「レジャーとしてのスポーツ登山」への批判的メッセージ。

 その5 「仲間」=「和」の精神の強調である。

 これが最も重要なメッセージと思われるのは、1から4までのメッセージが、この5のうちに包括されているが故に、本作を根柢において支え切っている理念であると思えるのである。

 以下、これらのメッセージの含意を考えていきたい。



(人生論的映画評論/劒岳 点の記('09)  木村大作<「仲間」=「和」の精神という中枢理念への浄化の映像の力技>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/01/09.html