海と毒薬('86)  熊井啓 <脆弱なるもの、汝の名は「良心」なり>

 1  米軍捕虜生体解剖事件



 二人の若者がいる。

 一人は沈鬱な表情の内に、重苦しい言葉を搾り出す。もう一人は、相手の深刻な表情を嘲笑うかのようにして、そこで搾り出された言葉を確信的に退ける。

 映像は、二人の噛み合わない会話の中に最も重いテーマを乗せて、その印象的なモノクロ画面をフェイドアウトしていく。これが、あまりに遣り切れないテーマに挑んだ、極め付けの社会派映画のラストシーンだった。

 場所は、九州の某大学の構内の敷地。
 時は、1945年春。

二人の若者は、その大学の医学部の研究生。
 二人が語り合った内容は、その日に行われた異様な外科手術について。勝呂(すぐろ)と戸田、これが二人の若者の姓である。
 
 彼らは憔悴し切っている。

 特に勝呂は、明日もまた同様の手術が行われることを考えると、この夜もゆっくりと眠りに就けないであろうことが想像される。彼はこの日、禁断のラインを半ば越えてしまったのだ。

 彼には、友人の戸田が禁断のラインを越えたことに対して殆ど無感動であることに狼狽(うろた)えている。自分もまた、明日そのラインを越えてしまうかどうか、出口の見えない煩悶の中で苦悩しているように見える。

 しかし映像は、勝呂の明日の行動を映し出すことをしなかった。

 映像が映し出したものは、その日に行われた生体解剖のための手術と、そこに流れるまでの重苦しい時間の束だけである。

 「海と毒薬」―― これが1945年の春に、実際に起こった事件を題材にした映画のタイトルである。
 
 事件の名は、「米軍捕虜生体解剖事件」。

 以下、その概要を適切な参考文より引用する。(読みやすくするため、筆者の独断で、段落替え等の編集をしてある)

 「・・・・・九州大学医学部はわが国の医学界に大きな足跡を残してきた。医学界にたいする貢献、大であり、押しも押されぬわが国の名門医学部である。そんな栄光の伝統を誇るこの医学部にも、陰はあるものだ。関係者が触れたがらないその事件が生体解剖事件である。
 
 事件のあらましは、こうである。
 
 昭和20年5月17日から、6月2日までの間に4回の解剖が行われ、8人の米兵が犠牲になった。この解剖手術の目的は次のようなものである。

 1回目は全肺摘出、海水の代用血液であった。2回目は心臓摘出、肝左葉切除、3回目はてんかんに対する脳手術、4回目は代用血液、縦隔(じゅうかく/注1)手術、肝臓摘出であった。

 この解剖は病院の手術室ではなく、解剖学教室の解剖台で行われた。米兵は麻酔をかけられてはいたが、手術中、もしくは術後すぐに、死亡した。手術は当時の主任教授であり、これら一連の解剖手術でも執刀した石山福二郎によって指揮された。これらの手術はすべて、石山の専門分野に及んでおり、彼の業績に対する野心があきらかである。

 その2ヶ月後には終戦を迎える。

 終戦後、まもなく医学部長、病院長、新聞社それに石山本人あてに事件を糾弾する4通の投書が舞い込んだことがあった。関係者は懸命に隠蔽工作をおこなった。しかし、この事件は、世間にジワジワと浸透していった。

 翌、昭和21年7月13日、GHQは突然、九州大学に車で乗りつけ、石山を戦犯容疑で逮捕した。九大関係の逮捕者は5名であった。石山はGHQから厳しい尋問を受けた。しかし、彼は生体解剖の事実を決して認めようとはしなかった。5日後、石山は独房で自死した。

 昭和23年8月27日、軍事法廷でこの生体解剖事件に関して判決が下った。九大関係からは3人が絞首刑であった。その2年後、マッカーサーはこの事件について、再審減刑をおこなった。さきに絞首刑の判決を受けた九大関係者はいずれも絞首刑を減刑され、重労働となった。

 
(人生論的映画評論/海と毒薬('86)  熊井啓  <脆弱なるもの、汝の名は「良心」なり>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/86.html