1 5点のうちに要約できる映画の凄さ
この映画の凄いところは、以下の5点のうちに要約できると思う。
その1 観る者にカタルシスを保証する、ハリウッド的な「英雄譚」に流さなかったこと。
その2 人物造形を「善悪二元論」のうちに類型化しなかったこと。
その3 主人公の視点による冷厳なリアリズムで貫徹し切ったこと。
その4 〈状況脱出〉の困難な制約下にあって、〈生〉と〈死〉の境界が見えない闇のラインを這い蹲(つくば)って生き延びていくことは、たとえそこに、ピアノの才能が介在したとしても、殆ど運不運の問題でしかないこと。
その5 これが最も重要な点だが、〈生〉に対する執着心が最後まで折れない、「防衛的自我」の様態を描き切ったこと。
以上の視座によって表現された映像を一言で言えば、絶望的なまでに苛酷な状況の只中で、〈生〉を繋いでいくことの圧倒的な困難さである。
この一点によって本作は、ホロコーストをテーマにした多くの胡散臭い感動譚や、独り善がりの反戦映画に張り付くセンチメンタリズムを突き抜けた言える。
この点は、センチメンタリズムの入り込む余情を意図的に擯斥(ひんせき)した、フェードアウトの多用によって明瞭ある。
以下、一つ一つ例証していこう。
2 カタルシスを保証するハリウッド的な「英雄譚」の拒絶
まず、ハリウッド的な「英雄譚」にしなかったこと。
これが、オスカー・シンドラーへの顕彰を目途にしたかのような「英雄活劇譚」に流れた、スティーブン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」(1994年製作)と決定的に別れているところである。
物語の過半は、ユダヤ系ポーランド人である主人公のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの、〈生〉に対する執着心が最後まで折れない、「防衛的自我」の様態を主人公の視点によって記録したもので、その内実は、地下活動組織に挺身する者のサポートによって命脈を保ち、荒廃した町を彷徨(さまよ)うワルシャワでの5年間の逃亡生活を淡々とフォローするだけであった。
シュピルマンを英雄として描かなかったこと。
何よりそれは、過去のホロコーストをテーマにした映画の胡散臭さを批判するかのような、作り手のその辺りの覚悟が読み取れて、私が最も評価したい点の一つだ。
本作で、英雄に最も近接した人物造形が存在するとしたら、シュピルマンを救った独軍将校であるだろう。
しかし、あの〈状況〉を考えてみよう。
物音一つしない廃屋の中に、逃亡ユダヤ人と見られる一人の男がいた。
男は髭が伸び放題で、痩せさらばえていた。
しかし男の視線には、殺意が全く感じられない。
と言うより、男は怯えていて、命乞いをしていうようにも見えた。
その静寂な空間が、独軍将校の心から、明らかに殺意を奪い取っていったと思われる。
「ここで、一人殺しても何の意味もない」
そう考えたのかも知れない。
と言うのは、男はソ連軍と対峙していたワルシャワが持ち堪えられるのは、僅か3,4週間であるとシュピルマンに吐露していた。
このような物理的・歴史的・心理的状況が、独軍将校をして、シュピルマンを殺害するに至る特段の理由を醸成しなかったとも言えるのである。
恐らく、独軍将校は普通の理性を持つ、限りなくスタンダード・サイズに近い良心的な人間だったに違いない。
だからこそ、シュピルマンのピアノ演奏を聴くことで、彼を救おうと思ったのだ。
だから独軍将校は、決して「抜きん出た英雄」として人物造形されていた訳でないのである。
彼がごく普通の理性を持つ善良な一人の将校であったことの証明は、その後、彼がソ連軍の捕虜となった際に、自分が助けたピアニストの名を叫ぶことで、命乞いする振舞いに現れていたと言えるだろう。
この心理的文脈は、全く不自然でもないし、戦争という苛酷な状況下にあっても、常に、この類の理性的人間が存在することの証明である。
ただ、それだけのことだと思う。
シュピルマンを殺さなかったのは、人間が殺意を抱くような〈状況〉に縁遠かったからではないか。
相手は怯えていて、且つ、ソ連軍の侵攻によって、せいぜい自軍が後3.4週間くらいした持たない現実を認知していたので、敢えて、一人の逃亡ユダヤ人を殺す意味を持たなかった。
独軍将校が、そう考えたとしても全く可笑しくないのだ。
この映画の凄いところは、以下の5点のうちに要約できると思う。
その1 観る者にカタルシスを保証する、ハリウッド的な「英雄譚」に流さなかったこと。
その2 人物造形を「善悪二元論」のうちに類型化しなかったこと。
その3 主人公の視点による冷厳なリアリズムで貫徹し切ったこと。
その4 〈状況脱出〉の困難な制約下にあって、〈生〉と〈死〉の境界が見えない闇のラインを這い蹲(つくば)って生き延びていくことは、たとえそこに、ピアノの才能が介在したとしても、殆ど運不運の問題でしかないこと。
その5 これが最も重要な点だが、〈生〉に対する執着心が最後まで折れない、「防衛的自我」の様態を描き切ったこと。
以上の視座によって表現された映像を一言で言えば、絶望的なまでに苛酷な状況の只中で、〈生〉を繋いでいくことの圧倒的な困難さである。
この一点によって本作は、ホロコーストをテーマにした多くの胡散臭い感動譚や、独り善がりの反戦映画に張り付くセンチメンタリズムを突き抜けた言える。
この点は、センチメンタリズムの入り込む余情を意図的に擯斥(ひんせき)した、フェードアウトの多用によって明瞭ある。
以下、一つ一つ例証していこう。
2 カタルシスを保証するハリウッド的な「英雄譚」の拒絶
まず、ハリウッド的な「英雄譚」にしなかったこと。
これが、オスカー・シンドラーへの顕彰を目途にしたかのような「英雄活劇譚」に流れた、スティーブン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」(1994年製作)と決定的に別れているところである。
物語の過半は、ユダヤ系ポーランド人である主人公のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの、〈生〉に対する執着心が最後まで折れない、「防衛的自我」の様態を主人公の視点によって記録したもので、その内実は、地下活動組織に挺身する者のサポートによって命脈を保ち、荒廃した町を彷徨(さまよ)うワルシャワでの5年間の逃亡生活を淡々とフォローするだけであった。
シュピルマンを英雄として描かなかったこと。
何よりそれは、過去のホロコーストをテーマにした映画の胡散臭さを批判するかのような、作り手のその辺りの覚悟が読み取れて、私が最も評価したい点の一つだ。
本作で、英雄に最も近接した人物造形が存在するとしたら、シュピルマンを救った独軍将校であるだろう。
しかし、あの〈状況〉を考えてみよう。
物音一つしない廃屋の中に、逃亡ユダヤ人と見られる一人の男がいた。
男は髭が伸び放題で、痩せさらばえていた。
しかし男の視線には、殺意が全く感じられない。
と言うより、男は怯えていて、命乞いをしていうようにも見えた。
その静寂な空間が、独軍将校の心から、明らかに殺意を奪い取っていったと思われる。
「ここで、一人殺しても何の意味もない」
そう考えたのかも知れない。
と言うのは、男はソ連軍と対峙していたワルシャワが持ち堪えられるのは、僅か3,4週間であるとシュピルマンに吐露していた。
このような物理的・歴史的・心理的状況が、独軍将校をして、シュピルマンを殺害するに至る特段の理由を醸成しなかったとも言えるのである。
恐らく、独軍将校は普通の理性を持つ、限りなくスタンダード・サイズに近い良心的な人間だったに違いない。
だからこそ、シュピルマンのピアノ演奏を聴くことで、彼を救おうと思ったのだ。
だから独軍将校は、決して「抜きん出た英雄」として人物造形されていた訳でないのである。
彼がごく普通の理性を持つ善良な一人の将校であったことの証明は、その後、彼がソ連軍の捕虜となった際に、自分が助けたピアニストの名を叫ぶことで、命乞いする振舞いに現れていたと言えるだろう。
この心理的文脈は、全く不自然でもないし、戦争という苛酷な状況下にあっても、常に、この類の理性的人間が存在することの証明である。
ただ、それだけのことだと思う。
シュピルマンを殺さなかったのは、人間が殺意を抱くような〈状況〉に縁遠かったからではないか。
相手は怯えていて、且つ、ソ連軍の侵攻によって、せいぜい自軍が後3.4週間くらいした持たない現実を認知していたので、敢えて、一人の逃亡ユダヤ人を殺す意味を持たなかった。
独軍将校が、そう考えたとしても全く可笑しくないのだ。
(人生論的映画評論/戦場のピアニスト('02) ロマン・ポランスキー <「防衛的自我」の極限的な展開の様態>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/01/02.html