1 「肉欲の満足で別人になりたい」と吐露する娘の大いなる戸惑い
父親から「プリンセス」などと呼ばれるほど溺愛され、我がまま放題に育った娘が、一緒にいるだけで「安寧」をもたらす感情を、「異性愛」と朧(おぼろ)げに考えていて、一抹の不安を抱えながらも、共存生活下での「安寧」の内実を知らずに、情感系の勢いによって、その男と結婚してしまった。
娘の名はローズ。愛称はロージー。
そのローズが抱える、一抹の不安感を伝える会話があった。
それはコリンズ神父との、砂浜での会話。
以下の通り。
「婚姻は神が定めた秘蹟だ。成立すれば、破ることは許されない。どちらかが死ぬまで」
このコリンズ神父の説教に、ローズは「分ります」と一言。
コリンズ神父の説教は続く。
「目的は三つ。まず、長い単調な日々も、苦しいときも労わり合う。次に子を産み、良き信徒に仕立て上げる。第三に、肉欲を満たすためだ・・・怖いのか?怖がることはない。自然なことだ」
「未婚の女なら、恐ろしいわ」
「男もだ」
「それで、人が変る?」
「結婚でか?」
「肉欲の満足で」
「私には経験がないが、別人になったりはせんさ」
「なりたい」
「何を望んどる?」
その問いに、ローズは答えなかった。
因みに、男の名は、チャールズ。
ダブリンで開催された地方教師の会議から帰村して来た、男やもめの中年教師である。
そして、一抹の不安を抱えながらも結婚したチャールズとの初夜の後で、ローズが経験した初発感情は、既に娘が求めていた「異性愛」のイメージとは確実に切れる何かだった。
それは、「肉欲の満足で別人になりたい」と吐露した娘の大いなる戸惑いだった。
ローズの失望感は、チャールズとの短い会話の中で直截に伝えられていた。
裸の夫がシャツを求めたとき、ローズの返事は「その方がいいわ」という一言。
「そうか。人が来たら困る」とチャールズ。
「いつも人目を気にするのね」
「みっともない。そうだろう?」
年の離れた真面目な夫が反応したとき、ローズは「分ったわ」と言って、夫に向かってシャツを放り投げたのである。
この小さいが、年の離れた夫婦の価値観の乖離を示す看過し難いエピソードは、穏健で理性的な夫との夫婦生活の内実が、ローズが求めていた、「肉欲の満足で別人になりたい」というイメージとの落差を検証するものだった。
その翌日、泣きながら砂浜を歩くローズがいた。
それを見たコリンズ神父は、彼女を追い駆け、話しかけていく。
「チャールズと何があった?」
「何も」
「何もないのか?」
「ありません」
「幸せか?」
「いいえ」
「なぜだ?」
「分りません」
「話してごらん」
「どうせ私が愚かで、我がままで、恩知らずだからでしょ。何の不足もないのに」
「そうとも。何が不足だ」
「分らない」
「嘘だ」
「本当よ。まだ何があるかどうかも分らない」
「君は夫を得た」
「最高の」
「金にも不自由はしていない。健康だ。それ以上何がある。あるもんか」
「あるわ。何かがあるはずよ!」
「なぜだ!お前がそう望むからか!」
「そうよ!」
若き人妻の右の頬を叩く神父の怒りは、件の女には理解し難い、以下の「決め台詞もどき」のうちに閉じていった。
「夢を見るのは仕方がない。だが、育ててはいかん。夢で身を滅ぼすぞ」
(人生論的映画評論/ライアンの娘('70) デヴィッド・リーン <ダイナミックな変容を見せる物語の劇的展開と睦み合う風景の変容>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/70.html
父親から「プリンセス」などと呼ばれるほど溺愛され、我がまま放題に育った娘が、一緒にいるだけで「安寧」をもたらす感情を、「異性愛」と朧(おぼろ)げに考えていて、一抹の不安を抱えながらも、共存生活下での「安寧」の内実を知らずに、情感系の勢いによって、その男と結婚してしまった。
娘の名はローズ。愛称はロージー。
そのローズが抱える、一抹の不安感を伝える会話があった。
それはコリンズ神父との、砂浜での会話。
以下の通り。
「婚姻は神が定めた秘蹟だ。成立すれば、破ることは許されない。どちらかが死ぬまで」
このコリンズ神父の説教に、ローズは「分ります」と一言。
コリンズ神父の説教は続く。
「目的は三つ。まず、長い単調な日々も、苦しいときも労わり合う。次に子を産み、良き信徒に仕立て上げる。第三に、肉欲を満たすためだ・・・怖いのか?怖がることはない。自然なことだ」
「未婚の女なら、恐ろしいわ」
「男もだ」
「それで、人が変る?」
「結婚でか?」
「肉欲の満足で」
「私には経験がないが、別人になったりはせんさ」
「なりたい」
「何を望んどる?」
その問いに、ローズは答えなかった。
因みに、男の名は、チャールズ。
ダブリンで開催された地方教師の会議から帰村して来た、男やもめの中年教師である。
そして、一抹の不安を抱えながらも結婚したチャールズとの初夜の後で、ローズが経験した初発感情は、既に娘が求めていた「異性愛」のイメージとは確実に切れる何かだった。
それは、「肉欲の満足で別人になりたい」と吐露した娘の大いなる戸惑いだった。
ローズの失望感は、チャールズとの短い会話の中で直截に伝えられていた。
裸の夫がシャツを求めたとき、ローズの返事は「その方がいいわ」という一言。
「そうか。人が来たら困る」とチャールズ。
「いつも人目を気にするのね」
「みっともない。そうだろう?」
年の離れた真面目な夫が反応したとき、ローズは「分ったわ」と言って、夫に向かってシャツを放り投げたのである。
この小さいが、年の離れた夫婦の価値観の乖離を示す看過し難いエピソードは、穏健で理性的な夫との夫婦生活の内実が、ローズが求めていた、「肉欲の満足で別人になりたい」というイメージとの落差を検証するものだった。
その翌日、泣きながら砂浜を歩くローズがいた。
それを見たコリンズ神父は、彼女を追い駆け、話しかけていく。
「チャールズと何があった?」
「何も」
「何もないのか?」
「ありません」
「幸せか?」
「いいえ」
「なぜだ?」
「分りません」
「話してごらん」
「どうせ私が愚かで、我がままで、恩知らずだからでしょ。何の不足もないのに」
「そうとも。何が不足だ」
「分らない」
「嘘だ」
「本当よ。まだ何があるかどうかも分らない」
「君は夫を得た」
「最高の」
「金にも不自由はしていない。健康だ。それ以上何がある。あるもんか」
「あるわ。何かがあるはずよ!」
「なぜだ!お前がそう望むからか!」
「そうよ!」
若き人妻の右の頬を叩く神父の怒りは、件の女には理解し難い、以下の「決め台詞もどき」のうちに閉じていった。
「夢を見るのは仕方がない。だが、育ててはいかん。夢で身を滅ぼすぞ」
(人生論的映画評論/ライアンの娘('70) デヴィッド・リーン <ダイナミックな変容を見せる物語の劇的展開と睦み合う風景の変容>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/70.html