山の郵便配達('99) フォ・ジェンチイ<「美しきもの」と「善きもの」との不即不離の紐帯のうちに包摂された「至高の価値」>

 1  「全身山里人」と「半身山里人」



 本作は、「半身山里人(やまざとびと)」が、「全身山里人」との、2泊3日の「公務員としての山の郵便配達」の濃密な共有経験を介して、「全身山里人」としての「職業」を選択することで、山里への「定着」を決意していくまでの物語。

 言うまでもなく、「半身山里人」とは「息子」であり、「全身山里人」とは「父」である。

 その「半身山里人」が、「全身山里人」を「父」と呼ぶクライマックスシーンにこそ、本作の基幹テーマが凝縮されているので、そのシークエンスを再現してみよう。

 「郵便物より軽いね」

 これは、父を背負って、河を渡り終えたときの息子の一言。

 その後、飼い犬であるシェパードの「次男坊」(一人っ子政策へのアイロニー)が集めた薪で、暖を取る父と息子。

 「首筋に傷痕があるな」

 昔、自分が息子を背負っていた父は、今や、その息子に背負われながら、息子の傷に初めて気づいたのだ。

 「昔のことだ」と息子。
 「知らなかった。何の傷だ?」と父。
 「15歳のときだった。鋤(すき)を担いで帰るとき、滑って切ったんだ」
 「母さんから聞かなかったな」
 「俺が、そう頼んだんだ」

 そこに、一瞬の「間」ができた。

 父は、息子に初めて、息子が産まれたときのエピソードを語っていく。

 と言うより、息子に吐露する、父の思い出話の一切が初めてのものなのである。

 思春期以降の父子の関係とは、大抵そういうものだ。

 「お前が産まれた頃、転勤で3カ月に一度しか帰れなかった。産まれた日に、母さんが手紙をくれた。配達員をしていて、自分宛の手紙は初めてだった。長い間に、たった一度だけもらった手紙だ。嬉しくて、有り金はたいて酒を買い、皆に振舞ったよ」

 息子は、この話を聞いて、父の表情をまじまじと見詰めている。

 「父さんに嫌われている・・・そう言うと、母は怒った。祭りのときにも帰らない。珍しく帰ったときに、爆竹を買って来た。やはり、父も辛かったのだ」(モノローグ)

 この直後、母の辛さを思い遣る息子は、「父さん、もう行こう」と、初めて「父さん」と呼んだのである。

 「あんた」が、「父さん」に変わった決定的瞬間である。

 
(人生論的映画評論/山の郵便配達('99) フォ・ジェンチイ<「美しきもの」と「善きもの」との不即不離の紐帯のうちに包摂された「至高の価値」>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/05/99.html