名もなく貧しく美しく('61)  松山善三<「美しきもの」を、「美しきもの」のまま、堂々と押し出してくる厚顔さ>

 1  「秋のソナタ」と「名もなく貧しく美しく」、そして、「あの夏、いちばん静かな海



 ヒューマンドラマなら何でもいいという感覚で、青臭い時代に受容してきた映画を観ることが困難になってから久しい。

 とりわけ、ガードレールクラッシュ以降、上辺だけの励ましが全く通用しない、「全身リアリズム」の世界に搦(から)め捕られてからの私には、言葉だけが必要以上に騒いだり、情動系が過剰に暴れたり、或いは、深刻な映像を垂れ流すだけの、内実の浮薄なシリアスドラマに全く振れなくなった。

 「恥ずかしながら偽善に酔う」という、私的ルールの許容範囲を越える、全き奇麗事の連射に辟易するからだ。

 「精神の焼け野原」と化したかのような映像シーンにおいて、人間の本質に残酷なまでに肉迫するベルイマン映像だけが、私の中に残ったのか。

 例えば、「秋のソナタ」(1978年製作/画像)。
 
 「娘のヘレーナがいたの。前より悪くなっていた。死ねばいいのに」

 これは、自分のエゴで障害者の次女ヘレーナを残して家出した母親が、長女のエヴァに難詰され、激しいキャットファイトを繰り広げた挙句、早々に、長女の嫁ぎ先の牧師館を後にした母親が、列車内で知人に放った言葉だ。

イングマール・ベルイマン(画像)は、この台詞を、スウェーデン生まれの大女優、イングリット・バーグマンに言わせるのだ。

 奇麗事に決して流さず、頑ななまでに容赦のないベルイマン映像の、その構築的映像の凄さに触れて、私は唯、怖れ慄くのみ。

 この「秋のソナタ」の何回目かの鑑賞の後で観た、本篇の「名もなく貧しく美しく」。

 三度目の鑑賞だった。

 正直、観ている私が赤面するほど、このフラットなヒューマンドラマの過剰さに辟易してしまった。

 まず、欺瞞的で、青臭いタイトルが充分に過剰である。

 これは、手話のシーンも含め、映像の中に余分なものを全く挿入させることがないが故に、一切の奇麗事を初めから排除する姿勢において一貫している、「あの夏、いちばん静かな海」(1991年製作)という「恋愛ドラマ」と比較すれば瞭然とするだろう。

 これまで、松山善三監督の作品を全て観てきているが、一貫して変わらない情緒の氾濫と感傷の洪水に、「これ以上何も語ってくれるな」という厭味が洩れるほどだったのである。

 
(人生論的映画評論/名もなく貧しく美しく('61)  松山善三<「美しきもの」を、「美しきもの」のまま、堂々と押し出してくる厚顔さ>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/05/61.html