処女の泉('60) イングマール・ベルイマン <「キリスト教V.S異教神」という映像の骨格による破壊的暴力性>

 1  「大罪」を背負い切れない者が最後に縋りつくもの



 独りよがりの観念論を声高に叫んだり、或いは、不毛な神学論争に決して流れたりすることなく、人間の心の奥にあるものを容赦なく抉り出し、キリスト教的で言う、神の主権への背反を意味する、所謂、「原罪」概念に集合する衝迫で、「邪悪」なる感情世界の破壊的暴力性を、ここまで描き切った映像の鮮烈な表現力に、私はただ打ち震えるだけである。

 無辜(むこ)の罪で殺害される幼気(いたいけ)な少年の凄惨なエピソードに象徴されるように、本作は人間ドラマとしても秀逸なのだ。

 また本作には、カトリック信仰の中で言われる「七つの大罪」が全て包含されていて、それぞれの人物が、それぞれの「大罪」を背負って、その「大罪」による「罰」への認知から逃避できない薄皮一枚の危うい心理を、自分の力で支配し切れない運命に流されていく物語の陰惨さは、殆ど類例がないほど抜きん出ていた。

 因みに、カトリック教会のカテキズム(公教要理)で言う伝統的な「七つの大罪」とは、「傲慢」、「嫉妬」、「憤怒」、「怠惰」、「貪欲」、「暴食」、「色欲」のこと。

 物語の主要な人物、とりわけ、豪農の敬虔深い夫婦(テーレとメレータ)と、「身重の召使」と蔑まれる下女(インゲリ)は、この「大罪」を背負い切れないで、彼らが最後に縋りつくのは、一神教としての絶対神であったというオチがついていたが、その辺りの背景についての言及こそが本稿の基幹テーマになるだろう。

後述するが、北欧神話をベースにした、ウラ・イザクソンとの共同脚本による89分の物語は、テーマ性に関わらない一切の不要な描写を削り取るという、作り手の問題意識を堂々と開陳したあまりに簡潔な映像であった。

 
 
(人生論的映画評論/処女の泉('60) イングマール・ベルイマン <「キリスト教V.S異教神」という映像の骨格による破壊的暴力性>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/01/60.html