奇跡の海('96) ラース・フォン・ トリアー <「愛の殉教者」=「純粋信仰の実践者」が蒙った、苛酷な「試練」が自己完結したとき>

 1  「近代合理主義」と「権威的・排他的形式主義」、そして「非合理的・純粋信仰」のパワー



 本作は、「近代合理主義」と「権威的・排他的形式主義」という両極のスタンスに、「非合理的・純粋信仰」のパワーを、巧みな映像表現で描き切った物語である。

 「近代合理主義」を象徴するのは、ベスの義姉(愛する実兄の未亡人)であるドドや、彼女が勤める病院のリチャードソン医師(ヤンの主治医)に代表される。

 また、厳格なプロテスタント信仰を堅持するかの如き、「権威的・排他的形式主義」を象徴するのは、言うまでもなく、物語の舞台となった、北海に面したスコットランドの寒村の「長老会議」である。

 この両極のスタンスと一線を画すのが、夫のヤンを救うために、彼の指示通りに「娼婦」を遂行する、本作のヒロインであるベスである。

 彼女の行動は、当然の如く、両極の立場から厳しく指弾され、或いは、教会からの追放を受けるに値する何かであったが、ここでは、「非合理的・純粋信仰」と把握しておこう。



 2  「神との対話」を繋ぐ女の「非合理的・純粋信仰」



 まず、ベスの存在は、「神との対話」を遂行する熱心な信仰者として、観る者の前に出現する。
 新婚のセックスのときでも、歓喜を与えてくれた夫に、「ありがとう」と呟くベスには、「神との対話」を可能にする「才能」が与えられていた。

 以下、その例。

 「ベスよ。いかなるときでも善良であれ」

 ベスの中の神の声だ。

 「ヤンは10日後に戻る。お前は耐えることを学ばねば。もう待てません。仕事仲間がヤンを必要としているのだ。帰って来さえすれば、お願いします。どうかヤンを家に送り返して下さい。本当にそう望むのだな。はい」

 これは、北海油田の労働者であるヤンが、仕事に出発する際に、取り乱した振舞いをしたベスの「神との対話」。

 人気(ひとけ)のない崖に向かって、独りぼっちになる寂しさを絶叫したばかりか、別離の際もヘリコプターに乗り込んだ夫を追い駆けて行った一連の振舞いを、彼女なりに深く反省しているのである。

 その折りも、不安を鎮めるべく、ナースである義姉のドドから安定剤を飲まされていた。

 しかし、ベスの最も恐れていた事態が出来した。
 
 海底油田で爆発事故が置き、意識だけが明瞭なヤンは、脊髄損傷による四肢麻痺の体になってしまったのである。

 そのときの「神との対話」。

 「何が起こったのです?お前がヤンを返せと望んだ。どうしてあんなことを言ったのかしら。なぜなら、お前は愚かだからだ。これは試練だ。お前の、ヤンへの愛を試しているのだ。生かして下さって、感謝します。礼には及ばん」

 しかし、自殺未遂すら図ったヤンは、「ベスを解放させてあげたい」と口走った後、信じ難き言葉を放ったのだ。

 「俺は不能だ。お前は愛人を作れ。だが、離婚はできん。教会が許さん」

 ベスに命令口調で、言い放つヤン。
 
 病室を出て、号泣するベス。

 「ギリギリまでいくと人間は変わる。そして、死にそうになると悪い人間になる」
 「あなたは死なない。私には分る」

 夫婦の重苦しい会話の一端である。

 それ直後、ヤンは、ベスからの「愛の話」を聞くことで、自分の命を救えるとまで吐露するのだ。
 
 
(人生論的映画評論/奇跡の海('96) ラース・フォン・ トリアー <「愛の殉教者」=「純粋信仰の実践者」が蒙った、苛酷な「試練」が自己完結したとき>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/06/96.html