告白('10)  中島哲也 <ミステリー性に富み、比較的面白く仕上がったエンターテインメント>

 1  「女性教諭」の衝撃的な告白



 欺瞞的な「愛」と「癒し」で塗り固められた「お涙頂戴」の情感系映画が、もうこれ以上描くものがないという沸点に達したとき、その目先を変えるニーズをあざとく嗅ぎ取って、この国の社会が抱える様々なダークサイドの〈状況〉を描くことで、恰も、「これが本物の映画」と言わんばかりのメッセージを張り付けたような映画が、ここにきて少しずつ揃い踏みするに違いない。

 良かれ悪しかれ、この目先を変えるという常套的な手法は、商業映画のコンテンツの商品価値を維持するための戦略として、殆ど必然的な現象であると言っていい。

 まさに本作こそ、そんな作品の一つだった。

 「愛美(まなみ)は、このクラスの生徒に殺されました・・・あなた方の命を守るのは親ですか?武器ですか?あなた方の命を守る頼もしい味方。それは少年法です」

 既に退任を決意したシングルマザーの担任教師(以下、「女性教諭」か「元女性教諭」)による、この衝撃的な告白で開かれる本作は、いきなりの「驚かしの表現技巧」を観る者に提示することで、本作がミステリー性に富んだ物語であることを印象付けていく。

 中学校1年目の3月のことだった。

 「女性教諭」による、この衝撃的な告白は、37人の生徒たちが集合する1年B組の、3学期最後のHRでの退任挨拶でのこと。

 ボール投げで遊ぶ者、携帯でメールを打つ者、トイレを理由に教室を抜け出す者など、「学級の無秩序性」(注)を露骨に映し出す「学級崩壊」の構図が、昨日もそうであったような普通の風景として描写されていて、そんな生徒たちを前に、「女性教諭」は衝撃的な告白を繋いでいくのだ。

 そして、件の「女性教諭」は、その場で、愛児を殺したと断定する二人の名を半ば特定した上で、彼らへの個人的な復讐を宣言し、学校を去って行ったのである。

 冷徹な復讐劇の始まりだった。

 以下、物語の梗概を省略して、映像に関わる本質的な言及に終始したい。


(注)ドイルは、「学級の無秩序性」の構成要件として、「多様性」、「同時性」、「即時性」、「予測困難性」などを挙げて説明した。


(人生論的映画評論/告白('10)  中島哲也 <ミステリー性に富み、比較的面白く仕上がったエンターテインメント>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/03/10.html