第9地区('09) ニール・ブロンカンプ <突貫精神の屈託のなさを全開させた、視覚情報効果のアナーキーな「初頭効果」のインパクト>

 1  視覚情報のみを掻き立てる訴求力の高いコンテンツを供与した、「初頭効果」の戦略性が見事に嵌った映画



 手を変え品を変え、より刺激的に視覚情報を与え続けることによってしか成立しなくなったハリウッドムービーが、遂に、このような形によってしか需要者に商品提示できなくなったことを証明する一篇でもあった。

 それが、より心地良い快楽を求め続ける娯楽の本質であることを認知している私としては、言うまでもなく、「それもあり」と考えている。

 従って、「音声解説」での監督の思いは理解できる。

 ただ私が気になるのは、次稿で引用する「アパルトヘイト世界とSFの融合こそが、“第9地区”の狙いである」という言葉にある。

 「融合」という概念を使うには、位相の違う両者が、作り手の中で「等価値」であるか、それに近いものとして把握されているということだろう。

 その場合、SFは映像表現の手段であり、フィールドでもある。

 当然ながら、そのフィールドの俎上に乗るのは、「融合」という言葉に象徴される、「アフリカの貧困者・被抑圧民・難民」というテーマ性であることに間違いないだろう。

 即ち、SFを物語のフィールドにして、後述するように、「アフリカの圧政権力」=「それを放置する先進国家」⇔「アフリカの貧困者・被抑圧民・難民」=(或いは、「格差で遺棄される先進国家の貧困者」)という、包括的なテーマ性を持った映像の構築を目指したということであると言っていい。

 しかし、決して長尺でない100分間の映像を観る限り、このテーマに関わる描写の挿入がふんだんに含まれてはいるが、観る者がこのテーマを正確に咀嚼し、受容し得る映像になっていたかについては相当に疑問が残るのである。

 夫婦愛あり、エイリアンの親子愛あり、件の「心優しきエイリアン」の友情への哀感あり、過激なアクションシーンあり、等々のごった煮の物語を、本作の中で最も感情移入し得る対象として描かれた、クリストファー親子(件のエイリアン)の誠実で、前向きな振舞いによって相対化されたのは、「差別する者」=「悪」なる「人類」ばかりでなく、悪戯に時間を浪費するばかりの他のエイリアンたちであった。

 この一連のエピソードの挿入が、恐らく本作を、「ヒューマンドラマ」に近いSF作品のうちに、限りなくイメージされた何かに昇華させる推進力になっているに違いない。

 そこに、作り手が言わんとする、ネガティブで凄惨な「アフリカの貧困者・被抑圧民・難民」の現実を、より照射させる効果を認知するのに吝かではない。

 ならば、なぜ、目まぐるしくテンポの速い物語を、最初はドキュメンタリータッチで、そして半ば辺りから、ハリウッド的な効果音を執拗に垂れ流し、最後は、そこもまた、殆ど予約済みのハリウッド的カタルシスを保証せねばならなかったのか。

 そのように、加速的にヒートアップした物語の、超ハイテンポなノリによってて失うものは、観る者の「半身思考停止」の様態であると言わざるを得ないのだ。
 要するに本作は、単に「面白いだけの娯楽」としての商品価値を、パワード・スーツ(筋力強化のためのロボットスーツ)の如き、文明の極北の産物等の利器を駆使することで、初監督作品としてのビギナーズラックを目途にし、相当にクレバーな戦略性を保持し得た、巧みな商品価値性を獲得するに足る、相応のクオリティーを内包した娯楽ムービー以上ではないという感懐を持たざるを得ないのである。

 確かに、「それもあり」だが、私としては、「アパルトヘイト世界とSFの融合こそが、“第9地区”の狙いである」という監督のコメントに接したことで、どうしても、ある種の戦略的で、低強度(緩やかな、という意味のアイロニー)の欺瞞的映像の印象から解き放たれないのだ。

 「初頭効果」(第一印象効果)の戦略性が見事に嵌った映画を作りながらも、前述したように、視覚情報のみを過剰に掻き立てる訴求力の高いコンテンツを供与したに過ぎないのである。

 私にとって、それ以上でも、それ以下の映像でもなかった。
 
 
(人生論的映画評論/第9地区('09) ニール・ブロンカンプ <突貫精神の屈託のなさを全開させた、視覚情報効果のアナーキーな「初頭効果」のインパクト>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/10/09.html