第三の男('49)  キャロル・リード <「戦勝国」という記号によって相対化された者たちとの、異なる世界の対立の構図>

  1  「闇の住人」の視線を相対化する映像構成



 時代の大きな変遷下では、秩序が空白になる。

 空白になった秩序の中に、それまで目立たなかったような「闇」が不気味な広がりを見せていく。

 「闇」は不安定な秩序を食い潰して、いつしか秩序のうちに収斂し切れないモンスターと化していくのだ。

 モンスターと化した「闇」と、不安定だが、それなしに時代を拓き得ない秩序が「闇」の稜線の広がりの中で、暴力的形態を露わにした物理的な戦闘による相剋を不可避にしてしまうのである。

 本作の舞台となったウィーンは、そんな不安定で、据わりが悪い時代の象徴とも言える闇深き都市だった。

 アンシュルスナチス・ドイツによるオーストリア併合)下のウィーンは首都機能を失っていたが、第二次世界大戦による敗北によって、米英仏ソ四ヶ国の共同占領下に置かれるに至った。

 分割統治の困難さの中では、当然の如く、治安状態は劣悪で、各国も自国の利益優先に振れていく。

 時代の急激な変化によって生まれた「闇」の世界では、ルールの形成は未成熟である。

 「闇」の世界の住人の尖ったエゴイズムは、不安定な秩序の切れ端に縋って生きる者の生き血を吸い、それを消費する。

 「闇の住人」から見れば、他者の存在は、全て消費の対象でしかないのだ。

 消費し尽してもなお、「闇の住人」の自我の安寧の空洞を埋めるために、少しでも、信頼するに足る「仲間」を求める心理も了解可能である。

 「闇の住人」に求められた男の、限りなく客観的な視線から描かれる物語の構造は、一貫して、「闇の住人」の視線を相対化する映像構成を貫流させていた。

 驚くほどシンプルなサスペンスドラマでありながら、本作の成功は、物語の視線を「闇」とは無縁な国からやって来た男の視線によって描くことで、「闇の住人」の世界の怖さを炙り出したことに因るだろう。
 
 
 
(人生論的映画評論/第三の男('49)  キャロル・リード    <「戦勝国」という記号によって相対化された者たちとの、異なる世界の対立の構図>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/03/49.html