市民ケーン('41) オーソン・ウェルズ <幻想を膨張させていった果ての、虚構の物語の最終到達点>

 1  負の感情として根深く横臥する受難の歴史の実相への弾劾



 「私は市民の人権を守るため、容赦なく不正と戦う」

 これは、本作の主人公ケーンが最初に発行した新聞、「インクワイアラー」社の編集方針声明の一文。

 この編集方針声明の際に、心にない笑みを零したケーンの表情が印象的だった。


 なぜなら、ケーンの心中には編集方針への節操など全くなく、ただ儲ける手段として「大義」を掲げただけなのである。

 「本気で笑ってはいない。笑いというものは、そこだけを取り出されると、大いに混乱を招くことがある。あの瞬間については、一つ見極めるべき点がある。ヒントは出してないが、わたしの真意を察してほしい。というのは、ケーンが言ってること、すべて心にもない虚言なのだ。彼が味方につけたいのは、とりあえずここにいる二人だ。味方につけて二人を自分の奴隷にするためだ。だが、当人は自分のいってることを信じていない。この男は人非人だ。わたしが好んで演じ、好んで映画にする人非人どもの一人だ」
  これは、当時、モデルとなった実在の人物の妨害行為等々で、様々に曰くつきの本作の作り手である、オーソン・ウェルズ(画像)の回顧録的なロングインタビューでの言葉。

 因みに、この回顧録的な著書のインタビュアーは、「ラスト・ショー」(1971年製作)のピーター・ボグダノヴィッチ監督。

 ピーター・ボグダノヴィッチ監督は、このときのケーンの笑顔が、無理に作った笑顔であると思わなかったらしく、オーソン・ウェルズは「あの笑顔を信じられては困る」と言って、「非人どもの一人」であるケーンの、その後の破滅的人生の惨状との因果関係で、忌まわしきバックステージの内的風景を語っているのである。

 ともあれ、ウェルズが種明かしするケーンの心にない笑みを生んだのは、彼の親友で、主義・主張に強い拘泥を見せるリーランドが、声明を証拠書類として残しておこうと言ったことに、不安を感じたケーンが咄嗟に反応したものだった。

 従って、「味方につけて二人を自分の奴隷にするため」と語る「二人」とは、このリーランドと、「自分の奴隷にする」ことをケーンによって信じられたに違いない、「インクワイラー」の参謀のバーンステインだったが、遠からず、本性を露わにしていくケーンの野心と権力的横暴さに対して、主義・主張に強い拘泥を見せるリーランドが、埋めようがない関係の距離を作っていったのは必然的だったと言えるだろう。

 「これはハーストそのままだ。奇妙千万な ―― 一生かかって金を払い続けて手に入れた物を、見ようともしない男。こんな人物は世界の歴史にも類例がない。何でも溜め込む鳥みたいな性格の奴。彼は一切金を稼ぎ出していない。彼の大いなる新聞系列も結局は金をなくすしか能がない。どう見ても敗残者なのだ。ただもう物を集めまくり、その集めた物は梱包のまま、開けてみることがない。これは彼の実像なのだ」

 これは、ケーンの強烈な支配欲のモデルが誰であったかという、ピーター・ボグダノヴィッチ監督の質問に対するウェルズの答え。

 「こんな人物は世界の歴史にも類例がない」とまでウェルズに言わしめた、モデルとなった実在の人物が、今や、新聞王ウィリアム・ハーストであるという事実はよく知られているが、それにしても、ここまで軽侮する男への弾劾の根柢には、自らが招来した事態とは言え、製作段階から様々に曰くつきの本作の、殆ど冒険極まる映画の製作・公開という離れ業を、本場ハリウッドで遂行し切った過程と、その後の受難の歴史の実相が、ウェルズの内側に負の感情として根深く横臥(おうが)していたであろう。
 
 
(人生論的映画評論/市民ケーン('41) オーソン・ウェルズ <幻想を膨張させていった果ての、虚構の物語の最終到達点>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/12/41.html