ボスニア('96)  スルジャン・ドラゴエヴィッチ <憎悪の共同体の爛れ方―― 挑発的なる映像の破壊力>

 1  “友愛と団結”トンネル(1)



 ―― そのストーリーを、映像の展開に合わせて詳細に追っていこう。


 1971年6月27日。その日、“友愛と団結”トンネルの開通式が行われた。

 「“自然には抗い難し”とは、誰の言葉か。またもや我が建設者の技術が岩に勝ち、我が社会主義国ユーゴスラビアの経済的、文化的な結合を強めました。ジェマル・ビエディッチが到着し、歓迎されるところです。共産少年団(ピオニール)が歌います」

 “英雄チトー元帥に率いられ 我ら地獄の苦悩にも必ず打ち勝つ・・・・”

 「全てのトンネルは、光り輝く出口を象徴します。ボスニア・ヘルツェゴビナも30年前の今日、社会主義と民族協和の道を歩み始めたのです。労働者たちに声をかける同志ジェマル。同志チトーへのメッセージを預かりました」

 このトンネル開通を祝う儀式の国営放送は、やがてモノクロからカラーの映像に移り変わって、その儀式の現場をリアルに再現させていく。

 ジェマルが開通式のテープカットを行うとき、誤って大きな鋏で自分の左手の指を切ってしまった。鮮血の赤が画面一杯に映し出されて儀式は中断するが、応急手当によって大事に至らず、すぐに儀式を祝うダンスが楽団の伴奏に乗って、開通式の形式は繋がったのである。しかしこの小さなテープカットのミスが、この国の近未来の暗黒を不気味に象徴する出来事であることを、そこに参列した様々な民族の顔を持つ民衆の誰が予想したであろうか。

 場面はここで、映画の原題を大きく映し出した。

 「LEPA SELA, LEPO GORE」―― その意味は、「美しい村は美しく燃える」というもの。ここから、時系列を交叉させて進行する、多分にブラックユーモアを交えつつも、しかし本質的にはとてつもなく苛烈で、重苦しいドラマが開かれていく。



 2  廃墟と化したトンネルの前で(少年時代の回想)



 ユーゴスラビアボスニア。1980年のことだった。

 そこに二人の少年が、既に廃墟と化したトンネルの前に立っている。少年の名は、ハリルとミラン。前者がムスリムで、後者がセルビア人。
 
 「ミラン、中に入ってみよう」とハリル。
 「嫌だよ」とミラン

 それでも少年たちは、恐る恐るトンネルの入り口に近づいていく。

 「人食い鬼が眠っている」
 「それ、悪魔?寝てるの?」
 「そうだ。起きたら村を喰い尽くして、火を放つ」
 「ハリル。父さんのナイフを・・・」
 「ナイフじゃ駄目だ。銃を持ってこないと」
 「よし、武装して、また明日来よう」
 「今は、そっとして置こう」

 少年たちは結局、トンネルの中に入らず、そのまま立ち去ったのである。



 3  ベオグラード陸軍病院で(1)



 1994年、ベオグラード陸軍病院セルビア)。

 そこに一人の青年が、頭にグルグル包帯を巻かれた状態で搬送されてきた。大人になったミランである。彼は担架の中で、2年前のことを回想していた。その顔には笑みが零れている。



 4  村の長閑なカフェで(1) 



 1992年、ボスニア戦争の初日。

 成人となったミランとハリルは、美しき自然の村の一角で、バスケットに興じていた。遊び疲れた二人は、村の長閑なカフェで酒を酌み交わしている。スロボの店である。

 そのスロボが読む新聞では、サラエボのきな臭い事件を伝えていて、二人は内戦間近な予感を何となく感じていた。彼らの村から家族が離脱していく光景を目の当たりにして、二人は否応なく内戦の渦の中に巻き込まれていくのである。

 まもなくミランは、セルビア兵として従軍することになった。親友のハリルはムスリム故に、家を破壊され、略奪された挙句、村を出ることになった。今や二人は、共存不能な民族の無残な展開の中で、敵味方となって対峙することになったのである。
 
 
(人生論的映画評論/ボスニア('96)  スルジャン・ドラゴエヴィッチ <憎悪の共同体の爛れ方―― 挑発的なる映像の破壊力> )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/96_25.html