ストレンジャー・ザン・パラダイス('84)  ジム・ジャームッシュ   <本当のアメリカ、本当のアメリカ人>

 アメリカの空港に、一人の少女が降り立った。エヴァである。

 建築現場のような、整備されていない殺伐とした台地から、飛行機の離発着を一頻(ひとしき)り眺めた後、トランクと紙袋を両手に持って、エヴァは静かに歩いて行く。

それが物語らしい物語が展開しない、際立って個性的な映像の始まりとなった。
 
 単身、ハンガリーからアメリカに渡って来て10年。

 以来、ニューヨークに住む青年ウィリーは、クリーブランドのロッテ叔母さんから、自分が退院するまでの10日間、ハンガリーから訪ねて来る少女エヴァの面倒を頼まれる。電話の向こうで、叔母さんはハンガリー語で語り続けてきた。英語で話せと要求するウィリーを無視して、一方的にハンガリー語を連射する叔母の言葉は、字幕では紹介されない。だから、映像はウィリーの反応のみを記録していく。
 
 「英語で話せよ。従妹のエヴァがここに一晩泊まるんだろ?今日、ブタペストから着く?ひどいよ。そりゃ話が違う。10日も面倒を見るのかい?迷惑もいいとこだ。親戚とは縁を切っているんだ。入院は気の毒だと思うよ・・・分ったよ・・・クソッ」
 
 諦め顔のウィリーの表情を映し出した後の、次のカットは「新世界」と題したシーン。
 
 とてもそこが、ニューヨークとは思えないほどの無機質な街並みの風景が広がっていて、その只中を、エヴァは紙袋から取り出したテープレコーダーのスイッチを入れ、お気に入りの音楽をかけながら目的の家に向かっていく。

 目的の家 ―― それは、従兄に当るウィリーのアパートの部屋だった。
ハンガリー語を交えて入室するエヴァに、ウィリーはここでも、「ハンガリー語は喋らんでくれ」と機先を制した。ロッテ叔母さんが入院したことで、翌日クリーブランドに出発できないことを聞かされ、エヴァは暫くウィリーのアパートの部屋に滞在することになったのである。
 
 食事の際の、二人の無機質な会話。

 エヴァはウィリーの食事のスタイルに素朴な疑問をぶつけただけだが、それがウィリーには気に入らない。
 
 「ムカつかせるな。これがアメリカの飯だ。肉とポテト、野菜、デザート。皿洗いも必要ない」

 アメリカというパラダイスに同化したつもりになっているウィリーは、米国流のジャンクフードやアメフトを平気で貶(けな)す、物怖じしないエヴァの態度に腹を立てるが、掃除などして、彼女なりに打ち解けようとする甲斐甲斐(かいがい)しさに親近感を抱いたのも束の間、彼女はクリーブランドに旅立って行った。

 彼女がニューヨークを後にする際、ウィリーから贈られたドレスを、夜の街路のゴミ箱に捨てて行く。それをウィリーの友人のエディに見られて、エヴァは「冴えないドレス」と一言。

 彼女の中では、ニューヨークという街は、そこに住む人々との関係を含めてフィットしないようだった。             

 一年後、友人のエディと組んだ如何様(いかさま)賭博で悪銭を稼いだウィリーは、エディと共に、叔母を訪ねるという名目でエヴァに会いに行く。

 ここから物語りはロードムービーの様相を呈していくが、既に映像は、その個性的骨格を垣間見せている。ワンカット・ワンシーンで繋がれていく描写を沈黙の黒い画面がその都度断ち切って、物語の継続性を意図的に分断する。それは、観る者の不必要な感情移入を防いでいるようにも見える。

 そして、それぞれのシーンから語られたのは、ホットにクロスしないウィリーとエヴァの会話であり、その空疎な生活風景。画面が一年後に変わっても、そこに映し出されたのは、定職を持たないウィリーとエディの相も変らぬ日常性。

 それは、賭博で悪銭を稼ぐウィリーとエディの生活に、語るべき何もなかったという事実を示している。彼らの自我には、「より良くあれ」という究めつけの黄金律が棲みついていないのだ。
 
 
(人生論的映画評論/ストレンジャー・ザン・パラダイス('84)  ジム・ジャームッシュ   <本当のアメリカ、本当のアメリカ人> )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/84.html